「目的性訓練」の持続が天才を作り出す

 マシュー・サイド著「非才! あなたの子どもを勝者にする成功の科学」という本を、少し前に読んだ。
 卓球選手として英国オリンピック代表になり、その後、ジャーナリストに転身した人物が書いた本で、とても刺激的で面白い本であった。
 要は、「目的性訓練」の持続が天才を作り出すのであって、才能ではないという主張には心底共感した。
 モーツァルトを例にとるならば、彼は天才ではなく、どちらかというと大器晩成型だったと言う話などは、とても興味深く、目から鱗が落ちる気分になった。
 具体的に述べると、音楽教育者の父親の手ほどきを受けたモーツァルトは、3500時間の目的性訓練を受けた頃(1日2時間の練習として5年後当たり)から頭角を現し、10000時間を超えた頃から、真の才能を発揮しだした、というのだ。
 石川遼選手にしても、イチローにしても、みな、目的性訓練を自らに課している。
 逆に、「君は才能がある」と言われてきた人物たちが自分の才能神話を崩さないために、ウソをついたり、誤摩化したりしていく例も紹介されている。
 いま、私は、段階的に発展する、この目的性訓練に主眼を置いた「国語教育」の方法はないか、と思索している。多分、ドリル形式が一番いいのだろう、と思うのだが、それを小学校低学年のときに受けさせる。そうすれば、日本の子どもたちの国語力は大幅に向上するのではないかと思っている。
 その内容は、ここでは触れない。

 娘をヤマハピアノ教室に通わせたときのことだ。その音感教育のメソッドを目の当たりにして、「なるほどこういうことをするから、ヤマハ育ちはちがうのだ」と思ったものだ。絶対音感を身につけさせる教育を、幼児の頃にほどこし、それを育て、選抜し、さらに育てては選抜していく。
 我が家の判断で、娘は小学校進学と同時に、ヤマハは辞めさせて、個人レッスンに切り替えた。先生や教室の雰囲気などもあって一概には言えないが、「ヤマハに通っていると、いずれピアノぎらいになって辞めていく」というウワサも耳にしていたからだ。

 しかし、そのとき、私は、ヤマハのような方法論が日本の国語教育、作文教育にはない、と悲しくなっものだ。十年以上前の話だが。
 作文では、相も変わらず「感じたまま、思ったまま、書きなさい」方式で教え、明治時代に作られた学校文法を後生大事に絶対視し、読解では先生の印象批評としかいえないような解釈がまかり通っている。句読点の読点一つとっても、呼吸で打ちなさい、というような教え方をしていて、読点の法則性には触れようとしない。
 とくに、いま学校が教えている文法(古文を除く)は、大学受験にもでることがない。多分、大学側が、時代遅れの過去の遺物にすぎないことを十分に認識しているからだろう。なにせ、西洋には文法なるものがあって、じゃあ、日本にも文法がなければ恥ずかしい、とばかりに明治時代に急造したのが学校文法な訳だからだ。
 しかし、勘違いしないでほしい。文法の学習など必要ない、といいたいのではない。いな、国際交流が当たり前になったいまほど、学生も教師も、そして、留学生も、みんなが真に納得できる文法が必要とされている時はないのではないだろうか。
 三大文法、四代文法といわれるように、いくつもの説があるのは耳学問で知っているが、それでも、学校文法よりはましだろう。その中で、特に、国語学の研究者の中で、もっとも支持されている文法を採用するだけでも、かなりの変化があるはずだ。
 そんなわけで、日本語をいま、再度勉強し直している。勉強し直してみると、日本語ほど面白いものはないような気がしてくる。不思議だ。

[PR]

by spanky2011th | 2011-06-26 21:14 | 世相 妄想随談