「は」と「が」について(10)

「はが文」の変形「はは文」について

 夏目漱石の有名な出だし「吾輩は猫である。名前はまだない。」をドッキングさせると、「吾輩は名前はまだない猫である。」になるが、これを今回は料理する。
 いうまでもなくスタンダードは「吾輩は名前がない猫である。」で、この文から、「吾輩は猫である。」「名前がない。」「吾輩は名前がない。」「名前がない猫である。」と、いくつもの文がとりだせる。さらに、加工次第では、「名前がない猫が吾輩である。」や、「吾輩は名前がない猫だにゃあ。」と、いくらでもつくれるのだが、その中の「吾輩は名前がない。」は「はが文」である。これを「はは文」になると、どういうことが起きるのか。

(1)吾輩は名前がない。
(2)吾輩は名前はない。


 たった1つの助詞で、ニュアンスががらりと変わってしまう。読み取れない人はいないと思うが、念のために書くと、(2)は、「名前はないけど、家はある。」「名前はないけど、知恵と勇気はある。」と、別の意味を言外に匂わせるのだ。
 漱石の作品「猫」では、「まだ」がついている。ということは、やがて「名前はつけてもらえるだろう」と、期待感を匂わせているのだが、果たして漱石の猫は名前をつけてもらえたのだろうか。
 なくてもいいのだが、私は「は」が2回続くときには、読点をうつことにしている。「吾輩は、名前はない。」と。
 「は」は「何々の話ですよー」と主題を作る助詞だから、読点をうつことで「吾輩の話ですよー、名前の話ですよー」と、読み手に混乱を引き起こさないためにである。

(1)彼は娘さんが結婚した。
(1)彼は、娘さんは結婚した。


 この場合で考えてみよう。(1)の「が」は現実を淡々と伝達する働きで、「結婚した。」で役目を終えてしまっている。
 ところが、(2)では、「彼の話ですよー」とまず1回目の主題の提示があり、続いて「娘さんの話ですよー」と2回目の主題の提示があって、とつぜん「結婚した。」で話を打ち切られてしまう。読み手は、「えっ」となり、ちゅうぶらりんの、なんじゃこりぁの、欲求不満状態。これが別のニュアンスを生む理由だ。

 「彼は、娘さんは結婚した。が、成田で離婚しちゃったから、いま、大変なんだ。」
 「彼は、娘さんは結婚した。が、息子がまだだから、いま、相手を探しているんだ。」

と、結末まで話されることで、落ち着く文型といえるだろう。

 これと似たので、次のような文もある。

(1)私は100ページの本を10分で読む。
(2)私は、100ページの本は10分で読む。


 やはりニュアンスのちがいをつくりだす。
 学校文法では一つの助動詞としている「である」でも、同じことが起こる。なぜ、ひとつの助動詞であるはずの「である」の真ん中に「は」が簡単に入れるのか、わけがわからないけど。

(1)太宰治の代表作は「人間失格」である。
(2)太宰治の代表作は「人間失格」ではある。

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by spanky2011th | 2011-06-30 15:43 | 日本語 助詞「は」と「が」