童話 メトロぎつね

メトロぎつね       あのや あきら
       1
「………二十七、二十八、二十九?」
 地下鉄の階段を数えながら降りていたぼくは、あれっ? と立ち止まりました。二十八段のはずなのに、二十九段あったのです。記憶ちがいのわけはありません。勤め先の写真現像所の行き帰りに、何百回、いや、何千回と数えているのですから。
 階段をかけ上って、もう一度一から数え直したくなりましたが、
「まもなく、最終電車がまいります」
という放送が聞こえてきたので、
「ばかばかしい」
とつぶやくと、背広の内ポケットから定期券をとりだし、改札口を通り抜けました。
 そして、最後の車両の最後部に座るため、プラットホームのはじに立つと、構内を見回しました。
 どこというわけではないのですが、どこかがちがっているように思えたのです。
「それに、人も少ないようだな」
 最終電車を待つ人が、七、八人いるだけでした。いつもは、その倍はいるというのに。
 一人、茶色い毛皮のコートを着た、スタイルのいい女性が混じっていました。
「……?」
 都会には季節がないといいますが、街路樹の葉の色、ビルの谷間からのぞく雲の形……、地上にはまだ季節があります。本当に季節がないのは、地下の世界です。あるのは、乗客の服装が、夏服から冬服へ、冬服から夏服へと変わる、その繰り返しだけです。
 いまは十月。コートには早すぎます。
 都会で変な格好の人と出会っても、じろじろ見てはいけません。相手に失礼であるだけでなく、自分がいなか者である証拠にもなるからです。
 といっても、好奇心を押し殺すことなどできません。さりげなく、後ろ姿を見せているその女性を、観察することにしました。
 肩のところまである髪は、すこし茶色がかった黒でした。そして、コートから伸びた二本の足は、長くて、ほっそりとしていました。 ぼくの頭に、この前現像したファッションモデルの写真が浮かんできました。暗室の現像液の中から、そのきれいな人が浮かび上がってきたとき、見とれてしまったくらいです。
「仕事で、着替える時間がなく、そのまま帰ることにしたんだな」 そう考えると、この時期にコートを着ていても、それほど不思議でない気がしました。
 ファッションモデルか、確かめたい気持ちがちらりと心の中で動きました。が、まさか、顔をのぞきにいくわけにはいきません。
 ゴーッという音が、トンネルの奥から響いてきました。ぼくは、腕時計を見ました。
「午前零時七分」
 いつもと同じ時刻を、時計は告げています。
 けたたましい金属音を響かせて、こちらへ走ってくる地下鉄の二つのライトが、トンネルの奥に見えてきました。
 ぼくは、ふっと動物の目を連想しました。
 もちろん、トンネルから出てきたのは動物ではなく、アルミニウム色の電車でした。
 電車に乗り込むとき、ぼくは、となりの車両に乗り込もうとしていた例の女性に、ちろりと目を投げかけました。そして、
「あっ!」
 その横顔に、思わず声を立てました。
 ぼくのよく知っている娘でした。
 現像所の窓口で働いている娘で、年が明けたら、ぼくたちは、ひっそりと結婚式をあげる約束になっているのです。




      2
 空いていた最後部の席に腰かけたぼくは、
「他人の空似というやつさ」
と、自分にいいきかせました。
 どう考えても、彼女のわけがないからです。
 ぼくの彼女は、中肉中背で、肩まである髪は黒々していて、第一、都会に何年住んでも、いなかくささが抜けない娘なのですから。
 その娘を本当に好きなのか、ぼくにはよくわかりません。でも、いっしょにいると心が落ち着き、少なくても不幸にはならないような気がして、結婚をする気になったのです。
 彼女のお気に入りだという小さな動物園にいったとき、ぼくはこう切り出しました。
「ぼくと、平凡な家庭を作らないか」
 とつぜんのぼくのプロポーズに、彼女は顔を赤くして、
「私でいいの?」
 ぽつりとつぶやき、信じられないというような表情をしました。でしゃばらない、ひっそりした性格の娘です。
 そういえば、こんなこともありました。
 お互いに、結婚式に呼ぶ人たちの名前を上げているとき、彼女が、
「家族は呼ばないの?」
と聞いたので、十七才のときに父が病気で死に、血のつながらない母が故郷にいるだけだと、ぼくは教え、それから、
「母とは、もう、縁が切れているんだ。もう、十年近く、連絡も取っていない」
と、つけ加えたのです。
 半分は本当で、半分はうそでした。母からは年賀状が毎年来ますが、ぼくからは一通も出したことがないのです。
「でも、来ていただかなくていいのかしら」
 彼女は納得していないようでした。
「いいんだ」
 ぼくはそういって、話を打ち切りました。
 彼女はまだ納得していないようでしたが、それ以上、とやかくいいませんでした。
 母に抱いているぼくの感情は、とても複雑で、簡単には説明しようがないのです。
 ただ、はっきりしているは、母には、これから作るぼくの家庭に、関わってもらいたくないということです。
 なぜなら、母は不幸を招き寄せる人だからです。
 ぼくの家は洋裁店で、ミシンを二十台くらい置き、人を雇っていました。
 ぼくの幸せな記憶といえば、幼いころしかありません。ぼくは、みんなが働いている仕事部屋で遊んでは、よく父に叱られました。すると、泣いているぼくを、ぼくを生んだ母が、歌うように、
「いい子は泣かない。いい子は泣かない」
と、強くだきしめてくれたのです。
 ぼくは幸せでした。
 でも、その母はぼくが七才のときに死に、父が今の母と再婚したのは、それから三年後でした。以来、ぼくの家族は次々と不幸に見舞われました。
 その年に、ぼくをかわいがってくれた祖母が死に、ぼくが十三才のときに妹は火事で死にました。父は不幸にも負けずに、必死に仕事を立て直そうとしていました。そんなある日、父が病気で倒れたのです。父の病気は、手遅れ状態にまで進んでいました。
 ぼくは、母から逃げるようにして、十八才の春に、この都会に出てきたのです。
 そんなとりとめのないことを考えていると、
「ママ、なんか、くさくない?」
という子供の声が、ぼくの耳に飛び込んできました。
 どきりとしたぼくは、声の方に目をやりました。車両には、十人近くの人が乗っていました。その中に、貧しい身なりのやせ細った母子がいて、その男の子が、ちろちろとぼくのことを見ていたのです。
 ぼくの目とぶつかった男の子は、あわてて目をそらしました。
 あっ、やっぱり、自分のことだ、と、ぼくは思いました。
 自分ではわからないのですが、現像液の匂いの立ち込める暗室にこもっているため、からだに甘酸っぱい匂いがしみこんでしまっているようなのです。
 最初に指摘したのは、アパートの管理人さんでした。その次は、都会に来て一目ぼれした花屋の娘にいわれました。
 もしかしたら、ぼくが、いなかじみた、さえない娘と結婚する気になったのは、彼女がぼくの匂いを、まったく気にしなかったからかも知れません。
 ぼくは、だまって立ち上がり、前の車両に移ることにしました。
 みんな、ぼくのことを見ているようでした。
「一人、二人……」
 席に座っている人の前を通り過ぎるとき、いつもの癖で、数えだしていました。
「やっぱり、くさいよ。人間くさいよ」
 後ろから、ささやき声がきこえてきました。
 人間くさい?
 薬品くさいといわれるのなら、わかります。人間くさいとは、どういうことでしょうか。
        3
 さいわい、となりの車両の一番はじの席は空いていて、近くにはだれも座っていませんでした。ぼくは、そこに腰かけると、腕を持ち上げ、自分の匂いをかいでみました。
 なんの匂いもしませんでした。当たり前です。どんなに遅くなっても、お風呂だけは欠かさないのですから。
「ぼくのことじゃないな」
 ほっとするのと同時に、匂いを気にしすぎている自分を、おかしく感じました。
 でも、同じ車両の乗客のようすが気になるので、あたりをうかがってしまいました。
 ぼくは、びっくりしました。
 やはり、十数人いましたが、みんながみんな、ぼくをじっと見ていたのです。
 ぼくの目は、真っ先にコートの女性をとらえました。どことなく似ていましたが、やはり、ぼくの彼女ではありませんでした。
 面長の顔で、目はややつり上がっていましたが、若くて、きれいな人でした。
 失礼なことをしてしまったと思い、あわてて、ぼくは目を伏せました。
「どうして、ぼくを見ているんだ?」
 となり車両から移ってくる人があれば、つい、見てしまうものだーーそう思おうとしましたが、あんな風にじっと見るのはどうも変です。
 やはり、匂うのでしょうか?
 横目で乗客のようすをうかがうと、みんなも、ぼくのようすをうかがっていました。
 不思議なことに、みんな、同じように、顔が面長で、目はつり上がっていました。老若男女関係なく、そうなのです。
 ぼくに見返されたのを恥じたのか、みんな、いっせいに顔をそらすと、床を見たり、前をじっと見たりしています。
 コートの女性だけは、ぼくから、目をそらそうとしませんでした。それどころか、ちょっと驚いたような表情を作ってから、ぼくに目礼をしたのです。
 ぼくも、目礼を返してから、はて、どこかで会ったことがあるだろうか、と考えだしたとき、反対側のドアが開き、
「おそれいりますが、乗車券を拝見させていただきます」
 入ってきたのは、つゆ草で染めたような青い制服を着た車掌でした。その顔を見て、
「きつね」
と、小さくつぶやき、ぼくはつばを飲みこみました。
 都会には変人が多いといっても、変わりすぎていました。
 青い帽子の下には、ふさふさした毛皮の顔があり、ぴょんととがった両耳も、大きく裂けた口も、黒々とぬれた鼻も、ぴんと伸びたひげも、本物そっくりです。
「まさか」
 首をふると、うでをつねってみました。それでも、きつねの車掌は消えませんでした。
「ははーん」
 職場の仲間から聞いた、どこかの駅の話を思い出しました。ある時間になると、トラのマスクをかぶった乗客が、電車に乗るのだそうです。トラのマスクを見慣れた人たちは、初めて見て驚いている人たちのようすをうかがい、にやにや笑っているというのです。
 あの車掌は、後ろから二両目の車両のときだけ、本物そっくりのきつねのマスクをかぶっているのかも知れません。
 いっしゅん、駅長に言いつけて、あの車掌をしかってもらおうかとも思いましたが、止めることにしました。大人げないではないですか。
 乗客の関心はぼくからそれ、みんな、乗車券を探して、ごそごそと内ポケットをさぐったり、カバンをさぐったりしだしました。
 ぼくも、内ポケットから定期券をとりだして、順番を待つことにしました。
      4
 ぼくのところにきた車掌は、水っぽい鼻をぴくぴくと動かしてから、うさんくさそうな目でぼくを見つめました。
「あっちでは、ずいぶん人間に混じって生活していたみたいですね」 変なことを聞くなと思いながら、
「ええ」
と、ぼくは返事をし、定期券を出しました。
「これは、なんですか?」
 ぼくの定期券を見て、そういうので、
「定期券ですよ」
「定期券?」
「そうです。二週間前に買ったばかりの、れっきとした定期券ですよ」
「くわばら、くわばら。買うなんて、人間みたいなことはいわないでください」
 ぼくは、からかわれているのかと思い、むっとしてきました。
「悪ふざけはやめてください」
 ぼくの言葉に、今度は車掌がむっとしたみたいで、強い口調で、
「悪ふざけしているのはどっちですか。この地下鉄に乗ってまで、人間の姿をしているのは、みんなに対するいやがらせですか」
 そういわれ、ぼくはあたりを見回しました。
 十数人いた乗客はみんな、きつねに変わっていました。きつねが、背広をきたり、ジーパンをはいたりしていたのです。そして、銀色にかがやく、憎しみとおびえに満ちた目で、じっとぼくのことを見つめていました。
 頭がクラクラしてきました。
「………」
 どこをどうまちがえたのか、とぼくは考えました。
 そして、階段だ! と叫びそうになりました。二十九段めの階段は、都会に住むきつね用だったのかも知れません。
 ということは、この地下鉄は、きつね用の地下鉄なのでしょうか。「あの……。これは、どこへいくのですか」
 ぼくは、おっかなびっくり、ききました。
「どこって、自分の生まれた塚へ、帰るにきまっていますよ」
 車掌はそういってから、こわい目で、
「変ですね、そんなことも知らないなんて。まさか、人間では……」と、ぼくをねめまわしました。
 いつ集まってきたのか、ぼくは、きつねたちに取り囲まれていました。
「ちがいます。ぼくは、きつねです。コーン」
 必死に打ち消そうとして、なき真似までしてみました。
「じょうだんはやめてください。それよりも、乗車券を拝見させてください」
 車掌がそういうと、ほかのきつねたちも、
「そうだ。乗車券だ。いくらずる賢くても、人間は乗車券までは作れないからな」
「もし、人間だったら、かみ殺してやる。人間のクルマというやつにはねられ、ぼくの乗車券は完成させられちゃったんだ。ぼくは、もっといろんなことを書き込みたかったんだからな……」
 人間は、きつねたちにきらわれているみたいでした。きらわれているというよりも、憎まれているようでした。
 もし、ぼくが人間であることがばれてしまったら、いったいどうなるのでしょう。
      5
 とつぜん、茶色のコートを着たきつねが、
「みんな、やめてください」
と、前に出てきました。ぼくに目礼した女性も、きつねだったようです。
「彼は乗車券を作らなかったのです」
 彼女がそういうと、車掌をはじめ、みんな、えっ! と、おどろきの声を上げました。
「それは、どういうことですか?」
 車掌は、おどろいた拍子にずれた青い帽子を正すと、好奇心いっぱいの声でききました。
 彼女は、ぼくのとなりに座ると、ぼくの手をぎゅうと握りました。細身のわりに力強く、あたたかな手でした。
 ふっと、以前にも、こんな風に、手を強く握られたことがあるような気がしました。
「彼は、となりの檻で生まれました。生まれるとすぐに、人間の手で育てられたのです。人間の匂いがからだにしみこんでいるのも、乗車券を作ろうとしなかったのも、半分、自分を人間だと思い込んでしまっているせいなのです。ですから、許してあげてください」
 きつねたちは、とがった耳をぴくぴくと動かしながら、聞いていました。
「そんな話、信じられるか。こいつ、乗車券を持ってないんだぞ。人間だ」
といったのは、クルマではねられたというきつねでした。
「まあまあ、落ち着いてください」
 いきり立つきつねをなだめると、車掌は、となりの彼女に、こういいました。
「失礼ですが、もう一度、乗車券を拝見させてもらえますか」
 彼女がポケットから出したのは、銀色のちょっと大きめの厚紙でした。どうやら、それが乗車券らしく、車掌はなめるように見つめ、
「ふむふむ……。子供のときに人間につかまって……、ずっとひとりで……、ふむふむ……、毒の入った食べ物を与えられて、乗車券が完成し……」
 ひとりごとをいっていたかと思うと、車掌は、つりあがった二つの目に涙を浮かべだしました。
 ぼくの背筋に寒気が走りました。乗車券が完成するというのは、死を意味するみたいだからです。ということは、ぼくは、ぼくのからだを地下鉄の階段あたりに置き忘れてきて、魂だけここにいるのかも知れません。
「この方が、人間をかばうわけがありません。それに、この方のような、不幸にもめげずに生き抜いてこられた方には、もっと上等な地下鉄に乗ってもらうべきでした」
 車掌はうやうやしい態度でそういうと、
「さあさあ、みんな、自分の席に戻って、自分の降りる駅で降りてください」
と、ぼくの回りに集まっていたきつねたちを、追い払いだしました。
 そして、ぼくのとなりのきつねに、
「いままで、たくさんの乗客を乗せてきましたが、あなたのような方ははじめてです」
と、車掌がいうと、彼女はぽつりと、
「たまたま、そうなっただけです。それだけです」
と小声でつぶやいた。
「ただ、私も、ふつうに結婚し、ふつうに子供を生んでみたかった。それだけが残念に思います」
 彼女はとてもしんみりした感じでした。
      6
「今回だけ特別に、乗車券をお作りします。まず、あなたのお生まれになった塚は、どちらでしょうか?」
 車掌は、肩からさげたかばんから、銀色の厚紙を取り出して、ききまました。
 ぼくは、地下鉄から逃げることだけを考えていました。チャンスをつかむまで、なんとか、時間をかせがなくてはいけません。
「あっ、失礼しました。あなたは、動物園で生まれたのでしたね。では、お母さんぎつねは、どこで生まれたのですか」
 車掌は、頭をかきながら、ききました。
「さあ、聞いたことがありません」
「えっ! 知らないのですか。お母さんといっしょの塚に入りたくないのですか」
 逃げ出すことができないのなら、ぼくも、自分を生んだ母のお墓に入りたいと思いました。でも、どうしても場所が思い出せません。
 どうにか、子供時分に遊んだ山の名前を告げてごまかすと、車掌は、
「あのあたりもずいぶん人間が侵出し、住みずらくなったみたいですね。では、あちらでおこなった良いことと悪いことを、お教えください」
 そういわれて、ぼくは、二十数年の自分の人生を振り返ってみました。
 いろいろあったように思っていたのに、悪いことをしたということも、良いことをしたということも、特にないのです。
 なんと意味のない、なんとつまらない人生だったのか! そう思うと、切なくなってきました。
「特に、ありません」
「そんなはずはないでしょう」
 車掌が、ぼくをじっと見つめました。
 このとき、コトン、コトンと一定のリズムで揺れていた地下鉄が、ゆっくりと止まり、ドアが開きました。
 チャンスだ! と思い、駆け降りようと思いました。が、となりの彼女が、ぼくの背広のすそをぎゅうと握り、引き止めました。
 ドアから何匹かのきつねが入ってきました。
 車掌は、役目を思い出したらしく、
「おそれいりますが、乗車券を拝見させていただきます」
 首をぐるりんと回すと、新たにきた乗客に向かっていいました。
「今よ」
 ぼくたちは、あわてて、地下鉄の外に飛び出しました。
「そこで、降りてはいけません」
 あわてて車掌が追いかけてきましたが、ドアは車掌の目の前でぴたりと閉まり、地下鉄がゆっくりと走りはじめました。
 あたりは、真っ暗闇でした。駅のホームもない、枯れかかったすすきの野原に、ぼくたちは立っていました。
      7
「ありがとうございました」
 親切にしてもらったお礼をいってから、
「どうして、ぼくを助けてくれたのですか」
 ずっと疑問に思っていたことを、聞いてみました。
「私はずっと一人でした。ゾウやライオンのような人気者でもないので、人間たちはみんな、きつねよ、といって、通り過ぎてゆくだけでした。私がいなくなっても、代わりのきつねを捕まえてくるだけでしょう。そんな私にも、一人だけ、きれいだといってくれる娘がいました。おいしい物をくれる娘がいたのです。その娘は、仕事がない日には必ず、私のところへ来て、いろいろな話を聞かせてくれました。私は彼女の話の世界を生きました。そして、いつしか、彼女を自分の娘のように思うようになったのです」
 そういわれて、ぼくは、あっと思いました。
 ぼくが彼女にプロポーズしたのは、きつねの檻の前だったのです。ぼくも、そのとき、なんだ、きつねか、と思っただけでした。
「うらやましいわ。あなたがたには自由も未来もあるのですもの。あの娘を、絶対に、泣かしたりしないでくださいね」
「はい」
 ぼくが心の底から返事をしたとき、
「人間くさいぞ」
 暗闇の中から、うらみがましい声がし、ぽっと青い火が闇に浮かびました。
「ほんとうだ。人間くさいぞ」
 また、青い火が闇に浮かび上がりました。
 それからは、声と同時に次々と青い火があらわれました。そして、火は、ぼくたちの頭上をぐるぐると回り出したのです。
 青い火に照らされ、あたりの景色が見えました。大きな木が一本あるだけで、あとは見渡す限り、すべてすすきでした。木は、雷でも受けたのでしょう、焼け焦げていて、真ん中からまっ二つに裂けていました。
 それに、若いと思っていたきつねは、毛はまだらに抜けていて、ずいぶんと老いているようでした。
 ぐるぐると回っている青い火は、だんだんと下の方に降りてきました。と、すすきの野原が急に明るくなりました。火がすすきに移り、ゴーゴーと赤い炎を吹き上げて、燃えだしたのです。
 それは、あまりにおそろしい光景でした。
 ぼくは、足がすくんでしまいました。
「たいへん。とりつかれてしまう」
 きつねが、ぼくの手をぎゅっと強く握りました。それから、ぼくの手をぐいと引くと、燃えさかる火の中に飛び込み、大きな木めがけて走りだしたのです。
 ああ、ぼくは、これで死んでしまうのだ、と思いました。そして、ずっと以前にも、同じようなことがあったのを、思い出したのです。
「お母さん!」
 思わず、きつねの手をきつく握り返し、夢中になって走っていました。そして、大きな木にたどり着こうとしたとき、なにかにつまずき、転んでしまったのです。思わず、ぼくは目をつぶてしまってしまいました。
      8
 目を開いたとき、ぼくの目の前には、灰色の壁がありました。行き止まりです。
 きつねのすがたを探そうと、あたりを見回しました。いません。
「階段……?」
 ぼくは、地下鉄の階段の一番下のところに、座り込んでいました。もう駅のシャッターは下りていました。
 きつねの地下鉄は本当にあったのでしょうか。
 夢を見ていたのでしょうか。
 それとも、地下鉄をねぐらにするきつねに、だまされてしまったのでしょうか。
 どれも、本当のようで、どれも、うそのようでした。ただ一つ、これだけは確かでした。
 一人の女性が、無性になつかしくなっていたのです。
「ぼくが、まちがっていた」
 ぼくは、申しわけない気持ちで、胸が張り裂けるように感じました。
 家を出る決心をしたぼくは、卒業までの日数を数えだしました。それがいつしか、ぼくの癖になりました。現像所では、このクセが役に立ちました。何分間液につけ、何分間水にさらし、というようなことが、なんの苦もなく出来たのです。
 その癖とも、さよならすべき時がきたようです。
 ぼくは、これが最後だと思い、
「一、二、三………」
 地上への階段は、二十八段でした。
 目の前に、電話ボックスがありました。吸い込まれるようにその中に飛び込むと、ぼくは、ダイヤルを回していました。
「もう、寝ているだろうか?」
 きつねと逃げているときに、ぼくが思い出したのは、二人目の母でした。
 あの火事があったとき、子供部屋でふるえていたぼくと妹を助けるために、母は飛び込んできてくれたのです。
 そして、ぼくたちの手を引くと、火が赤々と燃えさかる廊下を、つっきっていきました。不幸にして、妹は、そのときに落ちてきた天井の下敷きになってしまいました。
 ぼくは、妹が死んだのを、母のせいにしました。
 いや、それ以前から、身の回りに起こる不幸を、すべて母のせいにしていたのです。すべて母になすり付けていたのです。
 そうしなければ、ぼく自身、不幸にたえられなかったのかも知れません。
 それでも、母は、恨み言一つ言わず、ぼくらを愛そうとしました。ぼくらに尽くしてくれていたのです。
 でも、ぼくは、母のその気持ちを拒みつづけ、いつも、母の心を傷つけてきたのです。
 母にも、ちがう人生があったはずです。
 平凡に結婚し、平凡に子供を生み、平凡に老いてゆくという人生が。
 もしかしたら、ぼくがきらうので、母は自分の子を生むのを、あきらめたのかも知れません。
 電話の向こうから、眠そうな声で、
「もし、もし」
と、母の声がしました。
「お母さん、ぼくだけど」
 母は、ぼくの声を聞くと、ぼくの名をいい、
「どうかしたの? 事故にでも、巻き込まれたの?」
 心配そうな声で聞きました。冷たい仕打ちをしつづけてきたぼくを、まだ、心配してくれていたのです。泣きたくなってきました。
「ううん。仕事していて、終電に間に合わなかったんだ」
「そう。たいへんね」
「実は、お母さん。ぼく、来年、結婚するんだ。式に、来てくれるよね」
 ぼくがそういうと、母は、おどろいたような声で、
「おめでとう。でも、私がいくと……」
 母は、ことばをにごしました。母がなにをいおうとしたのか、ぼくには、わかりました。
 母は、自分でも、不幸を招くと思っているのでしょうか。
「なにをいってるの。お母さんは、ぼくのたった一人のお母さんじゃないか。来てくれないと、いやだよ」
 返事はありませんでした。
 でも、電話の向こうから、すすり泣く声が流れてきました。
 このとき、ふっと、だれかに、見られているような気がして、ガラスの向こうに目をやりました。
 地下鉄の階段の暗がりで、いっしゅん、つりあがった銀色の、二つの目が、やさしげに微笑んだように思えたのです。
                      (おわり)



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by spanky2011th | 2011-07-17 20:00 | 童話 友人あのやあきら氏作