基本文型1は変幻自在で、神出鬼没(1)

  
   吾輩は猫である。名前はまだない。

 あまりに有名な、この夏目漱石の「吾輩は猫である」の冒頭部分から、話を始めよう。
 英語にすると、「I am a cat.」「I don’t have a name」とでもなるのだろうが、私が扱うのは日本語であって、英語なんてどうでもいいのだ。この文は題述構文である。「吾輩の話ですよー、猫である」「名前の話ですよー、まだない」という具合で、主題が来て、そのあとにその属性が来ているのである。

 実質主義者である私は、この二つの文を同じと見立てる。あまりにも細かく品詞分解するから、名詞述語文だとか、形容詞述語文だとか、意味のないことで頭を悩ませることになるのだ。詞と辞くらいに分解を止めとけばよかったのに。

 一般の文法学者は、自立語に付属語(助詞など)がくっついていて、相手に意味を伝える言葉を作っていると考えている。が、私の場合は考え方が真逆で、まず構文があって、それを助詞が判るようにしていて、「空いたスペース」に自立語を放り込んでいる、と考えている。

 題述構文でいうと、要は「主題」があって、「主題の属性」があるというパターンだ。
 列車の貨車を知っていることと思う。貨車には、貨車の特性が一目でわかるように「ハム」「ワラ」というように印がふってある。これが助詞だ。そうしておいて、貨車の中にポンポンと貨物を放り込んでいる。
 同様に、日本語は脇役の助詞が構文を作り、構文と助詞がつくった空きスペースに、自立語がポンポン放り込まれて、言葉は作り上げられていく。こうやって、日本人は、情報や自分の意志を、相手に伝達しているのだ。ただ言葉を拾い集めてきて、その言葉の違いを分析して、「この助詞にはこういう役目がある』などと分析していないで、ちょっと自省してみれば明白なことである。
 この題述構文の特性は、「陳述構文」とはちがい、語順が決まっている。S+V+O+Cとはちがうのはいうまでもない。

      主題+は+属性+である。

 この属性は無限大と言っていいほどある。

 属性の部分が名詞ならばそのまま、それ以外ならば「の」「こと」という形式名詞を用いて、適当に、このパターンの「スペース」部分に自立語を放り込んでいる。ただ、それだけなのだ。
 大雑把に言って、属性は次のようなものだろう。
ある人物を頭に描いて、その属性をズラズラと並べ立ててみよう。

相(見た目など)……ネコみたいだ。短身だ。耳が欠けてる。声が大山のぶ代にそっくり。など。
性(性格など)……ドラ焼きが好きだ。ネズミが嫌いだ。親切だ。など。
体(物質面)……金属だ。精密機械だ。など。
力(働き)……走る。歩く。歌う。など。
作(外に働きかける作用)……いろいろな発明品で、色々な事件を起こす。など。
因(原因)……博士に作られた。など。
縁(間接的条件)……友だちがノビ太だ。

彼は、ネコみたいである。
彼は、短身である。
彼は、耳が欠けてる。
彼は、声が大山のぶ代にそっくりである。
彼は、ドラ焼きが好きである。
彼は、ネズミが嫌いである。
彼は、親切である。
彼は、金属である。
彼は、精密機械だ。
彼は、走るのである。
彼は、歩くのである。
彼は、歌うのである。
彼は、いろいろな発明品で、色々な事件を起こすのである。
彼は、博士に作られたのである。
彼は、友達がノビ太である。

 
 「である」は助動詞と辞書には書いてあるが、断定の助詞「だ」の連用形に動詞「ある」をくっついたものだという説もある。私は、後者だと思うのである。でなければ、花魁言葉「でありんす」も助動詞ということになるからだ。ここら辺にも、急造の余波がかいま見られる。
 「である」も「だ」も「体現止め」も、同じ仲間であ。「だ」よりも「である」の方が使い手の意志が前面に出てくる。使い手の意志や感情は、助動詞のような些細なところに宿るのだ。

「彼は、友達がノビ太である。」なんて言葉に接したら、英語文法で日本語を考えている先生方は目を剥くに違いない。しかし、日本語はそういう言語なのである。「彼は、娘が結婚したんだ」も同様である。
 学校文法では「主語-述語」にしがみついているので、このような言葉を排斥しようと努力している。

 この中に、『はが文」が忍び込んでいる。「である」を取り除けばいいのだ。

彼は声が大山のぶ代。
彼はドラ焼きが好き。
彼はネズミが嫌い。
彼は友達がノビ太。

 主題も、なにも名詞に限らない。動詞でも、形容詞でも何でもいいのだ。

 仲よきことは、良きことかな。
 美しさは乱調にあり。

 名詞以外の言葉でも、日本語は簡単に名詞化できるようにつくられているのだ。

 これは題述構文の初歩で、実は、これに「飾り」をつけるのが当然になっている。
「吾輩は猫である。」の「猫」に飾りをつければ、

「吾輩は、名前はまだない猫である。」
「吾輩は、名前はまだない。」


となるのである。
 「はは文」である。この「はは文」は、入試問題の出題者のかくれた「受験生を落とすためのテクニック」として使われるが、いつか、がっちりと書いてみたい。

 現役作家で、この飾りの名手だと思うのはなんといっても森見登美彦だろう。

「彼はあまりにも毛だらけで、もはや長老というよりも、知恩寺阿弥陀堂裏に転がったふはふはの毛玉であった。」(有頂天家族)

 この何気ない一文は重文構造になっていて、「彼はあまりにも毛だらけで」のあとに書かれていないが「彼は」があり、その後に「もはや長老というよりも、知恩寺阿弥陀堂裏に転がった」「ふはふはの」の二つの飾りが「毛玉」にかかっている。文型は1Aなのである。
 以後も、
「先年、誰も気づかぬうちにまがうことなきホンモノの毛玉となっており、いつの間にか白玉摩楼中の狸となっていたことは記憶に新しい。
平家物語云々は老い先短い毛玉の見た夢にすぎないとしても、今日もなお、洛中には大勢の狸たちが地を這って暮らしている。……」
という具合で、飾りの部分にも味わいがあるのだ。速読なんてくそくらえ。速読していたら、この味はわからなくなる。



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by spanky2011th | 2011-07-31 16:55 | 日本語  基本の3文型