いま必要なのは職業政治屋ではなく、志の政治家

「いま必要なのは職業政治屋ではなく、志の政治家」 

 今はどこの大学も、経営的に厳しいときく。教授といえども、高校回りをして、自分の大学の素晴らしさを宣伝し、一人でも多く受験してもらおうと悪戦苦闘している、ときく。
 研究に没頭したくてもできない現状。文系はまだしも、実験しなくてはならない理科系はとくにひどいらしい。
 私は、国家の下に学問があるのではなく、学問が民衆とともに国家を監視すべきであり、学問が民意を汲み取り、国家の進むべき道を示すべきであると考えている。学問の世界に詳しい訳ではないが、いろいろな学説が対立する場合も多いだろう。
 しかし、その対立は止揚するために必要なものであり、その対立なくしては進歩はない。時間がかかろうが、考え抜いていくうちに、やがて正解が見えてくるものだ。
 「君の説には反対だが、君がその説を主張する自由は断固守る。」
という学者の態度が、学問の自由を死守するためには必要だろう。
 この態度なくして、教育権を司法・行政・立法から独立させても無意味であろう。政治の世界はある意味、数の論理で、少数意見を尊重しつつも多数意見が通っていく。
 しかし、学問の世界は、時間はかかるが、少数意見が多数意見を凌駕していく。正しい方へ、正しい方へと流れていくのが常である。ときには、10年、20年と非常に時間がかかる場合もあるだろうが、それでいいのだ。

 歴史は400年くらいで大きな節目がきて、次の歴史が始まるという説がある。
 私は、いま、資本主義(アンチとして登場した社会主義・共産主義)が終焉を迎えようとしている気がする。いや、未来のために、終焉を迎えさせなくてはならない、と思っている。
 大量生産・大量消費の時代がいずれ行き詰まるのは、ローマクラブの「成長の限界」で指摘されていたことだが、いよいよ限界に近づいてきたように思う。日本の大量生産・大量消費の原動力になっていたのは、原発といっていいだろう。
 ワールドウォッチ研究所の「地球白書」に書かれていたことが、現実化してきている。十数年前なら異常気象と報道されていた現象が、ここ数年はごく当たり前のこととして報道されている。去年同様に熱中症で死者がでる酷暑が異常気象でなくてなんだというのだ。
 異常気象が常態化して、異常と感じなくなってしまったのは、私たちの感性が異常だからなのか。
 世界のトップクラスの豊かな国であるはずなのに、5人に1人が200万円以下で暮らしている貧困大国ニッポン。それを作ったのは人間である。
 異常気象を作り上げたのも人間である。
 人間が作り上げたものを、人間が変えられない訳がない。
 
 進むべき道はみんな判っているのだ。ただ、その方向に、メガマシーンのニッポンが舵をきることができないでいるのだ。どのように舵を切れば、混乱を引き起こさずに、安全に方向転換できるのか、それができるのは政治家ではなく、学問の世界だろう。
 政治家が学問の世界に真摯に学び、学問の世界が狭い学界に閉じこもらずに民衆の中に飛び込み、民衆がエゴにとらわれない、賢さを見せる。この幸福な関係をきずかなくてはならない。
 よく「政治家が悪い」といわれる。たしかに、いまの政治家は、世襲制の政治屋と、官僚出身の政治屋と、松下政経塾出身の政治屋ばかりで、志の政治家がいない。
 松下政経塾出身者も、初心を忘れてしまったようで、政局やポスト欲しさばかりに気がとられているような気がする。
 松下幸之助はかつて「年度ごとに予算をすべて使い切るいまのやり方を変えれば、無税にすることができる」と言った。無税はともかくとして、そのことだけでも松下政経塾出身者が力を合わせて実現化してもらいたいものだ。




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by spanky2011th | 2011-08-11 15:01 | 世相 妄想随談