坂本龍一と桑田圭介

 エレクトリック・マイルスと呼ばれる時代のマイルス・デイビスの作品群の中で、いちばん好きなアルバムはと聞かれたら、迷わず、「パンゲア」「アダルタ」のライブ盤をあげる。ほかもすべて捨てがたいが、聞き込み度からいっても、この二つは、ダントツで聞いていた。
 まるで太古の巨大生物が洞窟の中で生息していて……といった空想が、どこまでも広がっていったものだ。
 いまも、折があると、聞いている。
 私は、そのライブを聴いて、音楽にはスペースというべきものがあり、広がりとか、色とか、さまざまな要素があると言うことを学んだ気がする。
 ギター1本がすべての空間を占めてしまったり、パーカッションの一音が様々な色を持っている。そんなことを学んだような気がする。それを楽しむことを教えてもらった気がする。
 惜しむらくは、自分に絶対音感があって、和音なども聞き取れる音感があれば、もっと深いところまで堪能できるのだろうと思うのだが。

 以前、NHKの番組で、天下の坂本龍一に、爆笑問題ののっぽの方が「サザンオールスターズ」の曲がサイコーだとやたらとしつこく主張していた。そう、サザンの桑田圭介は独自でオンリー・ワンだが、音楽の一部でしかない。
 桑田圭介をけなしているわけではない。
 ただ爆笑問題ののっぽのバカが、新橋の居酒屋にいる酔っぱらいみたいに、自分の意見に固執している姿を見ていて、こういうやつって、多いよな、と思うから書くのだが、日本人の多くは、「メロディーのついた歌詞」のみを音楽と思っているように思う。
 それは、音楽の一部であって、それがすべてではない。もっと、もっと、音楽の世界は裾野が広くて、いろいろな楽しみ方があるのだ。
 たとえば、ラベルの「ボレロ」。たとえば、ドビュシー。たとえば、ストラビンスキー。口ずさみにくいが、すばらしい音楽があるのだ。「ボレロ」などは、スペースと色を楽しむことができない奴には、まさに、ただ延々とつづく同じメロディーにしかすぎないだろう。
 たしか、大昔に読んだ「日本人の脳」という本だったと思うが、虫や鳥の鳴き声を、日本人は言語脳の方で処理していて、西洋人は音楽脳の方で処理しているとあった。「え」「い」「う」というような母音に意味がある日本語。ところが、西洋では「え」「い」「え」だけでは意味をなさず、子音プラス母音の列で、はじめて言語となっている。
 虫の鳴き声(母音)は、西洋人には単なる雑音として処理されてしまう。しかし、日本人には、言語として、情感を感じるというのだ。
 たぶん、そのせいで、日本人の「メロディーのついた歌詞」のみを音楽だと思い込んでいるやつが多いのだろう。

 坂本龍一は、日本では数少ない、スペースとか、色を持った音楽の作れる音楽家。デビューアルバムの「千のナイフ」のときからそうだったのに、その大作曲家に、あのバカののっぽは、「メロディーのついた歌詞」の大家がサイコーとしつこく食いさがったのだ。
 結局、坂本龍一は、苦笑いするだけ。あたりまえだと思う。
 坂本龍一はたぶん、桑田圭介のことを「メロディーのついた歌詞」の大家としてリスペクトしているけど、自分はちがう道を歩んでいることを知っているのだから。
 言語脳+音楽脳で楽しむ音楽もあっていい。
それと同時に、音楽脳だけで楽しむ音楽もあるべきではないだろうか。また、これがあって初めて、本当の音楽の豊かさを享受できるのではないだろうか。
 
ということで、今日は、坂本龍一。


Ryuichi Sakamoto-Energy Flow




 ryuichi sakamoto - rain(live)



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by spanky2011th | 2012-01-30 21:08 | 世相 妄想随談(音楽付き)