カテゴリ:日本語  基本の3文型( 8 )

 陳述構文について(3)

 いまは、仕事を変えて、時間が取れなくなってしまったが、なんとか、日本語についてのこのコーナーも書き続けていきたい。
 仕事仲間が、「日本語は独特で、むずかしい」としゃべっているのを耳にした。俗説である。誰が言い出したかわからないが、「日本語は、よその国の言語と比較して独特であり、むずかしい」と信じている人が多いようだ。新書「日本辺境論」にもあるが、どうも、日本人は日本の文化を独特であると信じ込みたがっているようだ。
 よその言語が独特であるのと同様に、日本語の言語は独特であるが、それ以上でも、それ以下でもない。
日本語は、「主語+動詞+目的語」というような語順で意味を伝達する言語ではなく、「てにをは」と呼ばれる助詞を膠として、言葉をくっつけていく言語である。
 わたしたちが日常接する多くは、英語圏の人々であり、または中国語圏の人々である。語順で意味を伝える人々であって、孤立語の言語体系の人々が、膠着語の日本語を学ぼうとすると、とても苦労するのだ。
 たとえば、中国の人に、「日本語と英語のどちらが、マスターするのに苦労するか」と聞いてみよう。まず、まちがいなく日本語と答えるだろう。脳が、孤立語仕様になっているのだから当然なのだ。
 逆に、脳が膠着語仕様の日本人が、英語をマスターするのに苦労するのも、当たり前なのだ。だったら、中国語も当然、苦労するはずだと思うだろうが、日本語は、卑弥呼の時代よりも前から、漢文を読み下すために、いろいろと苦労してきた。「てにをは」そのものが、そのために生まれたようなものだ。つまり、漢文は読み下せても、中国語の会話は苦手。

 さて、陳述構文だが、「きのう、お寺で、坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた」が基本であると述べた。そして、その応用として、
「日本の国宝とも呼べるすばらしい坊主の絵を、きのう、お寺で、坊主が屏風にすばやく描いた。」
「完全密室殺人事件が起きた昨夜、坊主である彼は、お寺で、屏風に上手に坊主の絵を描いていた。だから、彼にはアリバイ があるのだ。」


の文を例文として作ってみた。
 
「きのう(名詞・自立語)、お寺(名詞・自立語)で、坊主(名詞・自立語)が屏風(名詞・自立語)に上手に(副詞・自立語)坊主(名詞・自立語)の絵(名詞・自立語)を描いた(動詞・自立語)」
 助詞が膠の役目をしているのがよくわかるだろう。「きのう」の後の読点「、」も助詞の働きをしている。「お正月にぼくはお餅を食べる」の「に」と同じ働きをしているのだ。
 自立語とはその言葉だけで意味をなすもので、「で・が・に・の・を」といった助詞は付属語と呼ばれている。
 試しに、辞書でも、子供の教科書でもいいから、文法のところを見てもらいたい。付属語として、小さくしか、扱われていない。
 が、実は、日本語では、付属語の方が重要な働きをしている。それにしても、付属語などと名前を初めに付けてしまったがために、後々の人が苦労しなくてはならないのだ。助詞は重要ではないという、勘違いの原因になっている。
 中学、高校のときの文法の授業を思い出してもらいたい。品詞分解ばかりで、助詞の重要さを学んだ記憶はないはずだ。教えている方も、その重要さに気づいていないみたいだ。また、気づいていても、学校の先生方は、マニュアルから逸脱することを禁じられているから、教えたくても教えられないでいる。

 陳述構文の語順だが、
「時格 + 場所 格 + 主格 + 与格 + 対格 + 動詞」
が基本である。これをベースにして、さまざまな変形が作れるのだ。そのときに活躍するのは主題を作る「は」である。この「は」は、「なになにの話ですよー」という、話題の提示である。

きのうは、お寺で、坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた。
お寺では、きのう、坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた 。
屏風には、きのう、お寺で、坊主が上手に坊主の絵を描いた。
坊主の絵(を)は、きのう、お寺で、坊主が屏風に上手に絵を描いた。


という具合だ。

 さらに、「お寺」「坊主」「屏風」「坊主の絵」といった名詞には、その前に、詳細な描写や説明としての「形容詞」や「名詞修飾文」といったものをつけることができる。文法的にはそんなことばはないが「飾り」と、以後呼ぶことにする。
 たとえとして、「屏風」に「飾り」をつけてみよう。左甚五郎が出てくる落語が個人的に好きだから、「左甚五郎が名人芸を発揮して作り上げた」という文で「飾り」としてみよう。

きのう、お寺で、坊主が左甚五郎が名人芸を発揮して作り上げた屏風に上手に坊主の絵を描いた。

「坊主が左甚五郎が」が「ガガ」となって、読みにくい。歌手の「ガガ」は素敵だが、日本語の「ガガ」は、さけなくてはならない。
 このような場合、長い部分を前に持っていく。事実、そこらへんにある文章を、適当に読んでみてもらいたい。多くの場合、そうなっているはずだ。

左甚五郎が名人芸を発揮して作り上げた屏風に、きのう、お寺で、坊主が上手に坊主の絵を描いた。

というように並べ替えればいいのだ。
 もっと「飾り」をつけてみよう。その屏風に「総檜作りの木枠に、こうぞを原料にした和紙を貼付けた」をくっつけてみよう。

左甚五郎が名人芸を発揮して作り上げた、総檜作りの木枠に、こうぞを原料にした和紙を貼付けた屏風に、きのう、お寺で、坊主が上手に坊主の絵を描いた。

というように、「屏風」にふたつの「飾り」をつけることも簡単にできてしまう。
 
「来週、新幹線で、ぼく達は、東京から京都へ修学旅行に行く」という文章があるとしよう。
この場合、一番大切なのは、助詞であるのは言うまでもないが、次に大切なのは「動詞」である。動詞が「行く」だから、「から」「へ」「に」という助詞が導きだされると言ってもいいだろうう。
 動詞により、必要な助詞が決まってくるといってもいいだろう。
 日本語の陳述構文とは、動詞に、「てにをは」という膠で、さまざまな自立語をくっつけて意味を相手に伝達する言語といっていいだろう。


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by spanky2011th | 2011-12-06 18:32 | 日本語  基本の3文型

陳述構文について(2)

 陳述構文で大事な働きをしているのは、動詞である。
 動詞によって、他の要素が決められる。「食べる」「いく」「仲良くする」とさまざまな動詞があるが、この動詞次第で、対格などは決められてしまうと言っていいだろう。
 この対格などという表現も、西洋文法の無理矢理の日本語導入のように感じられるが、日本ではそれらを「てにをは」と呼んできた。 
 私は「てにをは」という表現の方が好きだから、以後、「てにをは」と呼ぶことにしよう。

動詞「食べる」だったら、

 昨日、レストランで、ぼくはスプーンでカレーライスを食べた。

という具合になる。対格「カレーライス」と動詞「食べた」はとなり合うのが自然だ。
「スプーンで」のかわりに「友だちと」とか「友だちといっしょに」とか、その文章に必要な情報をくっつけることができるのだ。

 小学校、中学校の作文のとき、しばしば先生に「おい、主語が抜けてるぞ」と叱られたことがあると思うが、日本語では「主語」(実は主題の「は」)は、それほど重要ではない。もちろん、不必要というわけではない。

 昨日、レストランでカレーを食べたときの話だ。
 カレーを食べていると、とつぜん、雷が鳴りだし、停電になって、真っ暗になった。


 という具合に、主題抜きでも十分に日本語としては通じるのだ。
 内田百閒の文章などを見ると、主題が抜けている場合が多い。「私」の場合、ない方が自然なのだ。もちろん、あっても構わないが。

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by spanky2011th | 2011-11-01 21:27 | 日本語  基本の3文型

陳述構文について

 さて、陳述構文についてだが、書かれた文書を手にしてみれば一目瞭然。新聞でも雑誌でも、何でもいい。とにかくほとんどが、この構文である。
 どういうのかというと、「ぼく、それ、たべたい」という幼稚園生児が使う言葉も、「どうか、私を政治家にさせてください。お願いします」という政治家の使う言葉も、この陳述構文である。
「日本語の語順には法則性がない」などとほざく御仁もいるが、ちゃんと基本形があって、TPOによって、語順がさまざまに変化していっているのだ。

 その一番スタンタードな語順は、

時格 + 場所格 + 主格 + 与格 + 対格 + 動詞

といわれている。これは、たくさんの雑誌の文章で統計を取った結果、でてきたものだ(国立国語研究所報告25)。
  覚えたければ覚えてもいいが、無理に覚える必要はない。
 しかし、ほんと、ご苦労様。そんな苦労をしなくても、私たちには過去のすぐれた知的財産が残されているのだ。それは、次の文だ。

坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた。

 主格 + 与格 + 対格 + 動詞だけでなく、副詞まで入っていて、これを基本として、日本語を考えた方が、ずっと、まともな文章が書けるようになれるのだ
 おい、おい。時格 + 場所格 が抜けているではないか、とつっこまれてしまうが、心配は不要。

きのう、お寺で、坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた。

これでカンペキ。
 この基本文を頭に入れておけば、陳述構文は大丈夫なのだ。しかも、5W1Hといわれるが、そのほとんどの要素が含まれてしまっているのだ。

 この基本形があって、あとは、言語主体(つまり話し手)がなにを重要かと考えるかである。その重要な部分が当然前に出てきて、相手に強く印象づけようとする。

 日本の国宝とも呼べるすばらしい坊主の絵を、きのう、お寺で、坊主が屏風にすばやく描いた。

となるのだ。

  完全密室殺人事件が起きた昨夜、坊主である彼は、お寺で、屏風に上手に坊主の絵を描いていた。だから、彼にはアリバイがあるのだ。

 となるのだ。

 統計を取れば、科学的と信じている人々が多いようだが、この言語主体への洞察なくして、日本語を考えるとはまったく、バカバカしい限りだ。

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by spanky2011th | 2011-10-27 17:38 | 日本語  基本の3文型

「はが文」について

 中学・高校の英語の文法の授業で、さんざん絞られたので、60才近くになった今でも、英語の基本文型は頭にこびりついている。しかし、日本語の文型となると、興味のある人が独学でやるか、大学で不人気学部の国語学部に入った人くらいしかやらない。
 英語文型にない、日本語独特の文型として「はが文」というのがある。題述構文と陳述構文とのハイブリット構文というような、実に興味深い文型である。
「は」と「が」でさんざん書いたことだが、「は」は主題を表し、「が」は主語を表す。そして「が」は、五感認識伝達であると書いてきた。
 一度「文法 ハガ文」で、ググッてみてほしい。けっこう、おもしろい論文や、意見が出てくる。

「はが文」の「は」は主題だからスンナリと問題なしなのだが、ここでも問題になるのは「が」だ。日本語には必ず「主語-述語」がなくてはならないという信仰から、無理矢理に説明しようとしていたり、実に興味深い。

(1)「彼は目が青い」
(2)「彼は焼き芋が好き」
(3)「彼は娘が大学生だ。」


(1)(3)での助詞「が」は「主格」で、 (2)は「目的格」であるとされている。
 ここら辺にも、欧米の文法をガムシャラに勉強して、その考えをベースに日本語の文法を構築しようとした弊害を、筆者は感じてしまう。日本は欧米と比べれば遅れた国であるという、辺境人意識の抜けきらない学者さんの陥りやすいミスなのだろう。
 助詞の働きや違いをこまかく分析して、欧米の「主語」「目的語」を作る辞であると思い込んでしまい、「主格」「目的格」と分類したのだろう。ちなみに、(1)(3)の「は」は、「の」に置き換えることが可能だ。
 もっとシンプルに考えて、「が」は「着眼格」であるとすれば、「主格」「目的格」の両者の説明がつく。もちろん、いまの日本語の文法には「着眼格」などという分類は存在しない。
 「着眼格」といっても、目に情報収集の大部分を頼っている人間だから、五感「眼・耳・鼻・舌・皮膚」の代表選手としての「眼」なのであって、もし、人間が犬のように匂いに頼る存在なら「臭格」「着鼻格」(冗談です)ということになるのだろう。
 文法研究のタブーなのか、客観性がない・検証のしようがない・数字化しにくいという理由なのか、日本語を使うときの使い手の意識を内省することが、まずない。聞くときの聞き手の意識を内省することも、まずない。
 以前にも書いたが、私たちが日常色々なものに出会い、判断し、生きている。このときに中心になるのは、「人が歩いている」「車が通った」などなど「が」で作られた言葉である。外国人に日本語を教える日本語教師用のテキストでは、「が」は「現象文」とされている。

 たとえば、A氏と道でばったりと出あったときのことを、「が」を多用して書いてみよう。

(1)昨日、わたしはのんびりと道を歩いていた。やたら暑かった。むしむしした。汗がだらだらと流れる。
(2)すると、向こうからA氏がやってきた。
(3)私「やあ、お久しぶりです」
(4)A「おや、お腹がずいぶんスリムになりましたね」
(5)私「娘がダイエット食品会社に勤めだして、ダイエット食ばかりがテーブルに並ぶのですよ』
(6)A「そこらで暑気払いでもしませんか」
(7)私「ビールが飲みたいですね。たまには、発泡酒ではなく、ぜいたくに生ビールがいいですね。それに、脂っ気の多い焼き鳥もたまにはたべたいですよ」
(8)A「だったら、おいしくて、安い店がこの近くにありますよ」


 この文章の視点はわたしにしてみた。
(1) 以前さんざん悪口を書いた「未知情報・既知情報」でいうと、「が」は未知情報になるのだけど、主語なしの「やたら暑かった」「むしむしした。」と同じ意識で、「汗がだらだらと流れる。」と書いている。汗だけが新情報な訳ではない。暑かったと書けば「気温」であることがわかり、むしむししたと書けば「湿度」だ。当たり前すぎるから、省略しているのだ。ここで、わたしの意識は、まず、気温に着眼し、次に湿度に着眼し、次に、汗に着眼しているのだ。この意識の流れを無視して、言葉を考えること自体、ナンセンス。
 「汗がだらだらと流れる。」という文は、現象文らしい現象文にもなっている。「汗はだらだらと流れる。」にしてしまうと説明的になって、現実味がなくなってしまう。

(2) 私の目がA氏の姿を捉えた(着眼)ので、「向こうからA氏がやってきた。」となっている。めずらしく、新情報らしい「が」である。

(4) A氏は、私のお腹に着眼し、スリムになったと印象を述べている。

(5)私は、A氏の問いに答えようとしたら、まず娘の顔が浮かんだ。だから、娘に着眼し、ダイエット食に着眼して、お腹がへこんだ理由を説明している。

(7)暑気払いといわれて、私の頭に浮かんだのはビールだった。だから、「ビールが」と着眼して言葉にし、次に「飲みたいですね。」と付け足している。次に浮かんだのが「生ビール」で、その次が「焼き鳥」と着眼していく。
 この「が」は、従来の文法では「目的格」なのだが、「が」を「を」に置き換え可能だからにすぎない。「ビールをのむ」という言葉があるからだ。

(8)A氏は、「おいしくて、安い店」に着眼し、「この近くにありますよ」とのべているだけ。他の文章に書き換えることも可能だ。「だったら、私は、この近くにある、おいしくて安い店を知ってますよ』とかになるのだろう。このような文が最近、激増している。英語文法で書かれた日本語だ。

[文型1のパターン認識はこうだ]にでてきた「はが文」を拾いだしてみよう。主題「彼の話ですよー」とまずやって、次にその彼の一部分に着眼しているのがよく判るはずだ。

彼は、耳が欠けてる。
彼は、声が大山のぶ代にそっくりである。
彼は、ドラ焼きが好きである。
彼は、ネズミが嫌いである。
彼は、友達がノビ太である。


 それにしても、「着眼格」というのは、あまりにもダサすぎる。もっと的確な表現があったら教えてほしい。


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by spanky2011th | 2011-09-17 21:29 | 日本語  基本の3文型

題述構文のパターン認識はこうだ

分析・帰納法では日本語は理解できない

 ちなみに、文法学者によると、日本語の文を大きくわけると、以下の三つがあるとされているらしい。この文法学者というのは、ただド真面目に橋本文法が急造した品詞でひたすら膨大な量の日本語文章を分析し、共通点を探しまくっていれば、帰納法でいつか、正しい答えに辿り着けるという信仰を持っている人たちのことだが。

「動詞述語文」……犬が(は)走る。
「名詞述語文」……彼は(が)人間だ。吾輩は(が)猫だ。
「形容詞述語文」……彼女は(が)美しい。犯人は(が)悪賢い。

 しかし、私は、「名詞述語文」「形容詞述語文」の両方を一つとして考えるのだ。そして、なにより大切なのが「である」である。辞書などでは「助動詞」と、動詞より格下扱いされているが、実はこの「である」はとても重要な働きをしている。「だ」も「体言止め」も同じで、「である」の仲間にすぎない。

「基本文型1は変幻自在で、神出鬼没(1) 」でも触れたが、仏教の考え方十如是「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究境等」の、ほぼ無限大にある「属性」の中から一つをとりあげ、「である」と「義」を定めるために使用しているのだ。動詞などの場合は「こと」「もの」「の」の形式名詞を付け加えているだけ。

彼は、ネコみたいである。
彼は、短身である。
彼は、耳が欠けてる。
彼は、声が大山のぶ代にそっくりである。
彼は、ドラ焼きが好きである。
彼は、ネズミが嫌いである。
彼は、親切である。
彼は、金属である。
彼は、精密機械だ。
彼は、走るのである。
彼は、歩くのである。
彼は、歌うのである。
彼は、いろいろな発明品で、色々な事件を起こすのである。
彼は、博士に作られたのである。
彼は、友達がノビ太である。

文型1Aの場合は、
「主題」は「属性」
というパターンがあって、その中に、自立語をポンポンと投げ込んでいるだけなのだ。

 限りなくある属性の中から、話者がその一つを選択して「義」を「定」めるのが「である」の働きである。
 たとえば、三島由紀夫が「文章読本」で書いている「世界一の美女」の記述の仕方。
「彼女は世界一の美人であった。」
と書いたら、誰が文句をつけようと、世界一の美人なのである。
 事実など、関係ない。ただし、作品の読者は「この作家、趣味悪いよね。キモーイ。」と思われるかもしれないが。

 話を戻そう。
 私たちの言語活動は、文節や助詞などを正しく組み合わせて、帰納法的に「正しい文章」を作っている訳ではない。パターン認識で、直感的、演繹的に使用しているのだ。脳がそのようにできているのだから、どうしようもない。フランスの思想家ベルグソンの考え方が有効だ。ちなみに、橋本文法は、植物や動物をジャンル分けすることが科学的であると信じられていた「ベルグソン以前」に作られている。

「私  山  好き」
という三つの自立語が並んでいたら、スペース部分に勝手に助詞を補填し、「私は山が好き」と理解してしまう。

 暗闇で、逆三角形のものを見て、その中に点が三つはいっていたら、心霊と思い込んでしまう。これなどは、パターン認識の最たるものだ。
 木からおりて生活を始めたご先祖様たちは、身を守るために、闇の中に潜む敵をすばやく発見しないと、生命の危機にさらされた。逆三角形で眼らしきものを見たとたん、敵だと思い込むようにできているのだ。
 いちいち、三角形のものがあって、眼らしきものがあるから敵かもしれない、などと考えていない。見たとたんに、ご先祖様たちは逃げ出してしまうのである。
 しつこいようだが、パターン認識なのだ。

「椅子がある(動詞)」
「椅子がない(形容詞)」


は、同じなのである。これを「動詞述語文」「形容詞述語文」と、別物と考えること自体が不自然なのだ。

文型1Bの「はが文」の場合は、
「主題」は「着眼点」が「属性」
というパターンがあって、その中に、自立語をポンポンと投げ込んでいるだけなのだ。

「だれそれの話ですよ」(主題)+「なになに」(着眼点)+「どうした」(属性)

(1)彼は目が青い。
(2)彼はウナギが好き。
(3)彼は娘が結婚した。

「(2)彼はウナギが好き。」の場合の「が」について、分析派はこの「が」は目的格の助詞である、というように理解する。
(1)(3)は主格の助詞であるそうだ。

文型2の陳述構文なら、「が」ではなく、「(2)彼はウナギを好いている。」というように「を」が用いられる。

 小学生・中学生の国語の時間で学ぶ学校文法は、あまりに古すぎて、無意味の極めつけ。というより、日本語の正しい理解の妨げになるばかりで、百害あって、一利しか利益がない。その一利も、無意味なことにも努力すると言う「忍耐力をつける」という一利しかないのである。
 学校文法は、撲滅されるべきだ。

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by spanky2011th | 2011-08-27 16:14 | 日本語  基本の3文型

吾輩はウナギである(ウナギ文)

この文型1Aはとにかくやっかいである。

1 猫がウナギになる怪奇

 「吾輩は猫である」の猫が料亭にいき、注文を取りにきた仲居さんに、
「吾輩はウナギだ」
と、えらそうにいったとする。
 猫がいきなりウナギに変身したとも思わずに、ウナギの霊が猫に取り憑いて自己紹介を始めたとも思わずに、仲井さんは、間違えることなくウナギ料理を持ってくる。
 これは、いわゆる文脈(もしくはTPO)の中で、「吾輩はウナギが食べたい」「吾輩はウナギ料理を注文する」と、まちがえることなく、仲居さんが判断しているからだ。

 ちなみに、「吾輩はウナギだ」という文章を、文法の研究者は「ウナギ文」と呼び、ド真面目に研究しているのだ。
 どんな風に説明しているのか、興味があったので、インターネットの検索エンジン「google」でググッ(google)てみたら、国語研究家の論文が出てきた。読んでみると、こんなふうに説明がされていた。

(沖津説 1978)「吾輩は ウナギが 食べたい」→「吾輩はウナギだ」
(北原説 1981)「吾輩が食べたいのはウナギである」→「吾輩はウナギだ」
(川本説 1976)「吾輩は注文がウナギである」 →「吾輩はウナギだ」

と、いずれも、自立語部分が省略されたものと、考えているらしい。自分の意志や感情を相手に伝える道具として言語があるわけだから、不要なところはどんどん省略していいのだ、筆者も思う。
 が、実際は、「吾輩は ウナギが 食べたい」などという正しい文章を頭に思い浮かべてから、「ここを省略して……」などといちいち考えていない。
 省略されている自立語部分が頭に浮かぶこともないはずだ.「ウナギ」だけですませたいところを、これじゃ、ぶっきらぼうすぎて失礼だと思い、「吾輩はウナギである」と言葉を増やしているくらいなのだ。
 注文を取りにきている状況下で、
「 は  (だ・である)」というパターン(文型)で伝達し、相手もパターンで認識しているのでないか、と筆者は考えている。
 「吾輩の話ですよー」と主題を示し、注文を取りにきていると言う共通認識があるから、そこは省略し、「ウナギだ」と述部を述べているだけなのだ。
 「日本語は曖昧で非論理的言語である論者」は、しばしば、レストランでつかわれる「私はカレー」「私はオムライス」を取り上げ、「だから日本語はダメなのだ」とのたまうが、この変幻自在さの面白さに気付かない頭のかたさには、困ったものだ。「彼女はいまトイレです」が、「彼女がトイレの便器に変身中」でないことはいうまでもない。

2 猫が犬になる怪奇
 さて、猫が食事をしているところへ、「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵がふらりと現れたとしよう。池波正太郎風に書こう。

「おっ、うまそうなウナギだな。おい、親父、わしにも同じのをくれ。お銚子1本、御猪口2つもな」
 猫の隣に座った平蔵は、猪口に酒を注ぐと、猫に差し出す。
「うむ」
 猫は偉そうに受け取ると、黙って飲み干す。じっくりと味をあじわい、それから、どこそこの酒はうまい。あそこの蕎麦は絶品だ、と、味を思い出しているのか、ゆっくりとうまそうに話す。
 平蔵もつられて、だれそれが作る桜飯をぜひ食わせたい。汚い店だが、うまい深川丼をだす店があること、などなど楽し気に話しだす。
 1本のつもりだった酒が、2本になり、3本へ……。
 江戸を荒し回っていた盗賊団が平蔵により一網打尽にされたのは、それから半月後のことである。
 縄をかけられた盗賊のお頭は、手下たちをながめまわし、
「わしらを売ったイヌは、だれだ」
と、憎々し気に怒鳴った。
 そこへ、漱石の猫が現れ、こういった。
「イヌは吾輩である」

 と、ここで「吾輩は猫である」の文型の話に戻ることにする。猫がイヌに変身したわけでもなく、イヌの霊が取り憑いたわけでもなく、「吾輩はイヌが食べたい」の省略した形でもない。
 「回し者・スパイ」の比喩として使われているのは、文脈から明らかだ。
 大事なのは、文脈である。そして、語順も、それで決まると思えばいい。
 盗賊の頭が「わしらを売ったイヌは、だれだ」と問うので、猫は「イヌは吾輩である」と答えたのだ。
 平蔵が盗賊を捕縛するために猫に「密偵になってくれ」と頼み込んだ時、猫は「吾輩がイヌであるか」と聞き返したはずだ。
 この比喩は文型1でしばしば使われる。「目が節穴だ」「やつはうどの大木」「彼女はカナヅチ」「お腹がビア樽だ」「脳みそも筋肉でできている」……どうも悪口に多いような気がする。

 この「ウナギ文」の親戚関係にある文として、「コンニャク文」というのがある。

「コンニャクは太らない」


 もちろん、コンニャクが太っていく訳ではない。「コンニャクはいくら食べても、食べた人は太らない」という意味だ。
 これも、同じ構造だ。これは、食べ物と太る関係を述べている文脈の中では、ごく当たり前に使われる。
 「コンニャクの話ですよー」と主題を示し、食べ物と太る関係を述べている共通認識があるから、そこは省略し、「太らない」と述部を述べているだけなのだ。
 日本語はパーツ・パーツを組み合わせての帰納法的にできているのではなく、この大きな構造が大事なのだ。文脈、文型と「てにをは」で作られたスペースに自立語が放り込まれる。ただ、それだけなのだ。



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by spanky2011th | 2011-08-11 16:17 | 日本語  基本の3文型

基本文型1は変幻自在で、神出鬼没(1)

  
   吾輩は猫である。名前はまだない。

 あまりに有名な、この夏目漱石の「吾輩は猫である」の冒頭部分から、話を始めよう。
 英語にすると、「I am a cat.」「I don’t have a name」とでもなるのだろうが、私が扱うのは日本語であって、英語なんてどうでもいいのだ。この文は題述構文である。「吾輩の話ですよー、猫である」「名前の話ですよー、まだない」という具合で、主題が来て、そのあとにその属性が来ているのである。

 実質主義者である私は、この二つの文を同じと見立てる。あまりにも細かく品詞分解するから、名詞述語文だとか、形容詞述語文だとか、意味のないことで頭を悩ませることになるのだ。詞と辞くらいに分解を止めとけばよかったのに。

 一般の文法学者は、自立語に付属語(助詞など)がくっついていて、相手に意味を伝える言葉を作っていると考えている。が、私の場合は考え方が真逆で、まず構文があって、それを助詞が判るようにしていて、「空いたスペース」に自立語を放り込んでいる、と考えている。

 題述構文でいうと、要は「主題」があって、「主題の属性」があるというパターンだ。
 列車の貨車を知っていることと思う。貨車には、貨車の特性が一目でわかるように「ハム」「ワラ」というように印がふってある。これが助詞だ。そうしておいて、貨車の中にポンポンと貨物を放り込んでいる。
 同様に、日本語は脇役の助詞が構文を作り、構文と助詞がつくった空きスペースに、自立語がポンポン放り込まれて、言葉は作り上げられていく。こうやって、日本人は、情報や自分の意志を、相手に伝達しているのだ。ただ言葉を拾い集めてきて、その言葉の違いを分析して、「この助詞にはこういう役目がある』などと分析していないで、ちょっと自省してみれば明白なことである。
 この題述構文の特性は、「陳述構文」とはちがい、語順が決まっている。S+V+O+Cとはちがうのはいうまでもない。

      主題+は+属性+である。

 この属性は無限大と言っていいほどある。

 属性の部分が名詞ならばそのまま、それ以外ならば「の」「こと」という形式名詞を用いて、適当に、このパターンの「スペース」部分に自立語を放り込んでいる。ただ、それだけなのだ。
 大雑把に言って、属性は次のようなものだろう。
ある人物を頭に描いて、その属性をズラズラと並べ立ててみよう。

相(見た目など)……ネコみたいだ。短身だ。耳が欠けてる。声が大山のぶ代にそっくり。など。
性(性格など)……ドラ焼きが好きだ。ネズミが嫌いだ。親切だ。など。
体(物質面)……金属だ。精密機械だ。など。
力(働き)……走る。歩く。歌う。など。
作(外に働きかける作用)……いろいろな発明品で、色々な事件を起こす。など。
因(原因)……博士に作られた。など。
縁(間接的条件)……友だちがノビ太だ。

彼は、ネコみたいである。
彼は、短身である。
彼は、耳が欠けてる。
彼は、声が大山のぶ代にそっくりである。
彼は、ドラ焼きが好きである。
彼は、ネズミが嫌いである。
彼は、親切である。
彼は、金属である。
彼は、精密機械だ。
彼は、走るのである。
彼は、歩くのである。
彼は、歌うのである。
彼は、いろいろな発明品で、色々な事件を起こすのである。
彼は、博士に作られたのである。
彼は、友達がノビ太である。

 
 「である」は助動詞と辞書には書いてあるが、断定の助詞「だ」の連用形に動詞「ある」をくっついたものだという説もある。私は、後者だと思うのである。でなければ、花魁言葉「でありんす」も助動詞ということになるからだ。ここら辺にも、急造の余波がかいま見られる。
 「である」も「だ」も「体現止め」も、同じ仲間であ。「だ」よりも「である」の方が使い手の意志が前面に出てくる。使い手の意志や感情は、助動詞のような些細なところに宿るのだ。

「彼は、友達がノビ太である。」なんて言葉に接したら、英語文法で日本語を考えている先生方は目を剥くに違いない。しかし、日本語はそういう言語なのである。「彼は、娘が結婚したんだ」も同様である。
 学校文法では「主語-述語」にしがみついているので、このような言葉を排斥しようと努力している。

 この中に、『はが文」が忍び込んでいる。「である」を取り除けばいいのだ。

彼は声が大山のぶ代。
彼はドラ焼きが好き。
彼はネズミが嫌い。
彼は友達がノビ太。

 主題も、なにも名詞に限らない。動詞でも、形容詞でも何でもいいのだ。

 仲よきことは、良きことかな。
 美しさは乱調にあり。

 名詞以外の言葉でも、日本語は簡単に名詞化できるようにつくられているのだ。

 これは題述構文の初歩で、実は、これに「飾り」をつけるのが当然になっている。
「吾輩は猫である。」の「猫」に飾りをつければ、

「吾輩は、名前はまだない猫である。」
「吾輩は、名前はまだない。」


となるのである。
 「はは文」である。この「はは文」は、入試問題の出題者のかくれた「受験生を落とすためのテクニック」として使われるが、いつか、がっちりと書いてみたい。

 現役作家で、この飾りの名手だと思うのはなんといっても森見登美彦だろう。

「彼はあまりにも毛だらけで、もはや長老というよりも、知恩寺阿弥陀堂裏に転がったふはふはの毛玉であった。」(有頂天家族)

 この何気ない一文は重文構造になっていて、「彼はあまりにも毛だらけで」のあとに書かれていないが「彼は」があり、その後に「もはや長老というよりも、知恩寺阿弥陀堂裏に転がった」「ふはふはの」の二つの飾りが「毛玉」にかかっている。文型は1Aなのである。
 以後も、
「先年、誰も気づかぬうちにまがうことなきホンモノの毛玉となっており、いつの間にか白玉摩楼中の狸となっていたことは記憶に新しい。
平家物語云々は老い先短い毛玉の見た夢にすぎないとしても、今日もなお、洛中には大勢の狸たちが地を這って暮らしている。……」
という具合で、飾りの部分にも味わいがあるのだ。速読なんてくそくらえ。速読していたら、この味はわからなくなる。



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by spanky2011th | 2011-07-31 16:55 | 日本語  基本の3文型

日本語の基本はこの3つの構文だ

(1)文型1A 吾輩は名前がまだない猫である。(題述構文)
(2)文型1B 吾輩は名前がまだない。(はが文)
(3)文型2 坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた。(陳述構文)


 日本語のほとんどは、この3つの文型のバリェーションである。というより、これ以外はないと断定してもよいくらいだ。
 この3つを理解できれば、大学のセンター試験くらいは楽々高得点を取れるのだが、日本の学校文法は、文型をベースに日本語を理解しようとしていない。あくまでも、言葉をバラバラに分解した最小単位の「動詞」「名詞」「助詞」……にこだわりすぎているからだ。
 時は、文明開化の明治時代。西洋の学問が怒濤のごとく、日本に入ってきた。科学、政治学、文学……。とにかく、日本は遅れた国で、西洋は進んだ国。とにかく、追いつけ、追い越せとばかりに、有り難がって、日本に無理矢理導入した。
 ウィキペディアによると、日本語の文法はいくつもあり、その中で有力なのが三大文法、四大文法と呼ばれ、統一されていない。その中で、一番古いものをベースにして作り上げられたのが、今の学校文法だ。それも明治時代にだ。
 西洋の言葉(屈折語=言葉の並びで、意味を伝える S+V+O+Cなど)の精密な文法体系を知った学者が、日本語(膠着語=膠でくっつけるように言葉をくっつけて、意味を伝える)でも同じことが出来るはずだと、日本語をこと細かく切り刻んで、分類した。かならず、法則性が見つかるはずだ、絶対的なルールがあるはずだ、と信じて。
 まるで、原発をスタートさせた脳天気な政治家や学者のように。
 核分裂は人間にコントロールできるはずだ。いまは出来なくでも、近い将来夢のような方法が見つかって、核分裂をコントロールできるようになるはずだ。大量の使用済み核燃料も、近い将来、夢のような処理方法が見つかって、万々歳で終わるはずだ、と。
 とにかく、今は、やってしまえ。自信があれば、何でも出来る。とばかりに、日本語のすべての語彙を、分類してしまったのだ。でも、いまだに、法則性が見つかっていない。絶対的なルールがみつかっていない。
 でも、ちがう学問の世界が、日本語の特性に光を当てだしている。そして、新しい文法が生まれようとしている。学校文法を学ぶなら、外国人が学ぶ日本語学校の文法の方が、まだ新しいし、正しい。

 信じられる?  社会の教科書でも、理科の教科書でも、古くなった学説はバンバン捨てられているのに、なぜか、文法だけは、天然記念物のように大事にそのままの状態で保存されている。漢字などは、毎年のようにいじくりまわしているのに、文法だけは手つかずのまま、放置されたまま。
 大学入試には、現代の文法は出ない。
 なぜならば、学校文法が正しいと信じている大学教授がいないからだ。国語学をやっている教授が大学入試に学校文法を出すということは、自分の研究への裏切り行為になるからだ。

 私は文法の研究者でもなれれば、愛好家でもない。ただのド素人だが、何冊か、文法の本も読んだ。あえていえば、時枝誠記の「辞」「詞」に分けるやりかたが、自分の心にストンときた。腑に落ちるというやつだ。昭和十年代に作られた学説だが、実は、その源流は江戸時代にある。
 誰が何といおうと、「ある」(動詞)の反対語は「ない」(形容詞)だと、私は思う。
 「はが文」でいうと、「私は目が青い(形容詞)」も「私は鼻が動く(動詞)」「私はお腹がビヤ樽(名詞)」も、みんな、同じなのである。細かいことにこだわらずにも「辞」「詞」とみれば、見えてくるものがある。



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by spanky2011th | 2011-07-26 22:54 | 日本語  基本の3文型