カテゴリ:世相 妄想随談( 32 )

いまこそ四権分離を考えよう

 かつて四権分離を唱えた人がいた。司法・行政・立法の三権分離に加え、教育権を三権から分離させるべきだ、というのだ。戦前の軍事教育・教育勅語の反省からでた提案であった、と記憶している。
 今回の東日本大震災、福島原発事故を真剣に考えると、教育権が行政から分離されていれば、これほどの被害が拡大することはなかったのではないか、そう思えてならない。 
 たとえば、行政が国策として原子力発電推進に舵を切ったときに、学問の世界が、中立的立場(つまり、あくまでも学問的中立の立場)で、そのことが可能かどうか、またそのときのメリット・デメリットを判断していれば、とてもではないが、原発を推進することはなかったはずだ。
 脳がウソをつくことは、現在の脳科学では常識らしい。推進派に身を投じ、政官産学一体の原子力ムラからの有形・無形のメリットを甘受しているうちに、学問的な中立は薄れ、中立であるべき学者が推進派に有利な学説のみを主張するようになる。
 その学説が古くさく、学問的にはバカバカしいとわかっていても、その学者は社会的の地位も与えられ、莫大な研究費も与えられ、反対派の学者の声を握りつぶすことなど簡単にできてしまう。
 四十年前とは天地雲泥の差がある最新の地震予知研究の成果も、原子力推進派の学者の耳には届かなかった。いまも、届いていないようだ。

 菅内閣が放射能研究の権威として招いた小佐古内閣参与。彼が辞任するという事態は、ひさびさに学問の世界の良心をみる思いがした。
 そして、学問の世界は行政の方針に従うべきだ、という戦前と同じ過ちを犯しながら、それに気づかない政治家には呆れてしまう。
 とくに、辞めた小佐古氏に、内閣参与時代に知り得たことに対して沈黙していなくてはいけない守秘義務があると圧力を加え、口を封じようとした人物がいるらしいが、その人物が誰か、たいへん興味深い。
 学問の世界が、行政をリードしていくべきだ、といっているのではない。行政は、学問の世界を心の底からリスペクトすべきであり、そのためにも、あくまでも学問の世界が学問的中立をいられるように、学問・教育権を分離すべきなのである。
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by spanky2011th | 2011-06-25 20:17 | 世相 妄想随談

「マイ・バック・ペイジ」を見て

 先日、「マイ・バック・ページ」を家族で見てきた.過激派に走る松山ケンイチが印象的で、ラストの妻夫木の男泣きには、ついつられて涙ぐんでしまった. 
 ところで、過激派に走って基地に忍び込み、行きがかり的に殺人を犯してしまった赤邦軍(ホントは過激派ごっこ軍)の面々は、それほどの悪なのだろうか。
 あの時代、構造的暴力の下にあって自分たちの繁栄があることに気づいた若者たちは、ノーと叫んだ。体制側は、日本だけでなく、アメリカでも、暴力でその叫びを押しつぶそうとした。シカゴの初期に、それを唄った曲が あったと思う。 
 映画の中で、松山ケンイチが宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が大好きだというシーンがあるが、ここに彼の本当の動機が隠されているように思う。 ラストの方で、妻夫木が松山に「君は思想犯だよね」と確認するシーンがある。それに松山は答えられない。「君はだれなんだ」と尋ねるシーンもある。 それに対しても松山は答えられない。 
 松山には、思想と呼べる思想はない。ただ、カンパネルラになりたかったのだ。ただ、構造的な暴力の下で苦悩に喘いで いる人々を救いたいという単純な「心情」があっただけなのだ、と思う。 ホンモノになりたかった「心情犯」。これが、彼らの動機であろう。
  ATG映画で 「ヒポクラテスたち」というのがあった。その中で、「自分にないものを相手は持っているように思えたが、やはり、相手も持っていなかった」というようなセ リフがあったと思うが、映画を見ながら、松山も、妻夫木も、その他の人々も、みな、これで行動していたように思えてならなかった。
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by spanky2011th | 2011-06-24 23:13 | 世相 妄想随談