カテゴリ:日本語 助詞「は」と「が」( 16 )

「は」と「が」について(15)

日本語はいくつもの言語が混在している 

30年近く前に読んだ辻邦生の随筆に、ドン・キホーテと農民のやりとりに触れたものがあった。
 うろ覚えだが、その内容は、道ばたにいた農民にドン・キホーテが「この道をだれか通らなかったか」と質問すると、農民は「羊が一匹通って、また、しばらくして、羊が一匹と通って」と時系列に沿って喋り、それにイラついたドンキホーテが「羊が百匹通った」と言えばすむではないか、といってしまう。すると、農民は「私たちのムラでは、みんな、こうしゃべるのだ」と、反論したというのだ。
 辻は、このエピソードから、近代化以前の人は下部概念で考え、近代化以降の人は上部概念で考えている、というのだ。そして、物語(つまり小説)は、農民の考え方に近いという内容だった。
 元来頭の悪い私は、上部概念・下部概念というのをけっこう長い間考え続けていた。下部概念といっても、「羊」という言葉そのものがすでに抽象化の産物で、上部概念ではないのか、と思ってしまったのだ。羊といっても、同じ羊は二つとしてなく、みな、てんでバラバラ。それを無理矢理捨象して、羊という概念でくくっている。私にはそうとしか、思えなかったのだ。
 そんなことを考えているうちに、私の頭に「自分たちは、二つの言語をうまく使い分けて生きているのではないか」という発想が生まれた。
 現人類ホモ・サピエンス(クロマニヨン人)以前のネアンデルタール人も言語を持っていた。しかし、彼らは言語能力(思考能力)が劣っていたために滅んでしまったのだろう、といわれている。脳の骨格もかなり違うらしい。
 この後から発達した部分が、日本語でいうところの主題の「は」ではないのか、と私は思っている。頭の中のこと、まして有史以前のことだから、立証のしようがない。
 太古の日本人が使っていた言語は、現実を認識する言語。そして、相手に自分の考えを伝達する言語。ともに、現実に根を下ろした「現実認識伝達言語」であったろう。
 そのころは、主語の「が」は使われていなくて、「羊通った」というような、「が」なしであったと思える。
 たまに読む古典を見ても、主題の「は」は見かけるが、主語の「が」は使われていない。しかし「が」が現れていなくても、ゼロ記号として「主語」は存在していた。というより、この主語の方が歴史は当然長くて古いと考えた方が自然だ。
 多分、有史以前に、主題「は」と、主語「が」の混在するいまの日本語のスタイルはできあがっていたのだろう。
 この後から獲得した部分「内界夢想思索言語」は年を重ねるに従い進化し、変化し、複雑化していった。
 一部でいわれている「日本語には主語がなくて、主題がある」という主張は、圧倒的に発達した「内界夢想思索言語」を、分析の俎上にのせたからであろう。
 やはり、この説はいきすぎだろう。主語ありの「現実認識伝達言語」が日本語のベースにあって、その上に、主題による「内界夢想思索言語」が構築されていると考えるのが自然だろう。

 文法をやっている人に共通しているのが、わたしのような発想から考えるのではなく、ただ言葉を集めてきて、ひたすらその違いを分析しているのみ、と私には思えてしまう。いつか、この重箱の隅をつっつく作業をし続ければ、いつか帰納法的に正解にたどリつけると信じているみたいに。
 ベルグソンの「直感」と「分析」の考察は、文法の研究にも有効だと信じている。「直感」を証明するために、厳密な分析による検証が必要だ。つまり、厳密な分析に耐えられない直感はまちがっていると断定していいだろう。
 しかし、いくら分析し続けても、それだけでは意味をなさない。富士山の石をただひたすら近視眼的に分析しても、私たちが直感的に知っている富士山にはならないのだ。たとえ、その分析結果の積み重ねが富士山よりも高く積み上げてみても、私たちの直感には及ばない。

 この直感との関連だが、最近の脳科学では、私たちの認識は、ある意味アバウトなパターン認識であるとされているらしい(この分野も勉強不足で、耳学問くらいの知識がないが)。けして帰納法的ではなく、アバウトにその特徴を捉え、その特徴から同類と分類しているというのだ。
 この世には、まったく同じ羊はいない。太郎が飼っている羊10匹もそれぞれがまったく別の個体で、次郎が飼っている羊20匹も同じだ。もし、私が太郎と次郎からすべての羊を買ったら、私は羊30匹を所有することになる。それぞれの個体の差異は切り捨てて、パターン認識でそれぞれ同じ羊と分類し、 「羊30匹を所有している」となるのだ。
 「羊30匹を所有している」と考え、なんの違和感もないのは、私たちの脳がアバウトなパターン認識をしている、なによりの証拠なのだ。
 太郎の飼っているAという羊が何月何日に生んだ子羊の三番目と、次郎の飼っているBという羊が何月何日に生んだ子羊の二番目とはまったく別なのだから、現実には1+1=2にはならない。
 実際そうなのだ。交通事故で今日、152人の人がなくなったとする。一つ一つに、まったく別の悲劇が隠されていて、単純に数値化できるものではないのだ。
 しかし、私たちはなんの疑問も持たず、152人を受け入れてしまう。
 この抽象化し、数値化し、論理を追っていく 「内界思索言語」は、論文などになっていたのだろう。この時に使われているのは大脳の言語脳であろう。
 逆に、「内界夢想言語」は、有史以前は「神話」を生み出し、現在は無数の「小説」を生み出している。こちらは大脳の非言語脳(音楽脳・ビジュアル脳)をその場としているのであろう。
 しかし、実際は脳梁が右脳・左脳をつないで、瞬間瞬間、ダイナミックな情報交換がされているので、単純に図式化できないが。

 この日本には、無数の文章読本がある。
 有名どころの谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、丸谷才一、井上ひさしなど小説家系は「内界夢想言語」としての文章読本といえるだろう。
 文章の専門家=小説家という考えに「待った」をかけたのは、学者の清水幾太郎で、学生が全うな文章を書けないと「論文の書き方」を著したのだ。以降、さまざまな学者や先生方が「論文(またはレポート)の書き方」という本を出している。
 ある意味、当たり前なのだ。小中高の国語の先生方が教える国語というのは「小説」を中心にした「内界夢想言語」なのだから。
 それもまた当たり前なのだ。語弊はあるが、小中高の国語の先生方のかなりの比率で、将来、小説家や詩人などを目指して大学の国文科に入学し、小説家や詩人では飯が食えないのではないかと、将来への保険として教職課程をとり、小説家や詩人への夢を諦めた人たちがなっているからだ。国語の教師になるぞ、と真面目に国語に取り組み、 「内界思索言語」もしっかりと身につけている人が少ないからだ。
 いっそのこと、論説文の書き方は英数理社の先生方が教えた方がいいのではないか、とおもうレベルなのである。
 小説家系文章読本と学者系文章読本とは別に、もう一つの文章読本がある。新聞記者系による文章読本だ。これは「脳梁系」とでも呼べるハイブリット系で、これを読んだからと言って、小説家になれるわけでもなく、論文がうまくなるわけでもない。しかし、実に実用性のある文章読本だ。まず、読むとすれば、この系統が一番役に立つ。

 私も、「内界思索言語」は苦手にしている。
 社会に出て、ビジネス文の書き方で苦労した記憶がある。
 私がお世話になったある作家は、「筆が荒れる」と称して、作品以外の雑文はできるだけ書かないようにしていた。努力して築き上げた「内界夢想言語」が崩されるのが嫌だったからだろう。



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by spanky2011th | 2011-07-24 12:18 | 日本語 助詞「は」と「が」

「は」と「が」について(14)

「物語』の冒頭に「が」が用いられる理由

              
            現実世界では主役は「が」
              (外界)
          認 ↓      ↑伝
           識 ↓      ↑達

                五感
   夢想  …………………… 意識……………………  論理
   (音楽脳)         未那識          (言語脳)
   物   内      阿騾頼耶識      内   論
   語   界      阿摩羅識       界   文 

             内界世界では主役は「は」


 人類が言語を獲得するようになり、百数十万年。高度な思考ができる今の人類のご先祖様クロマニヨン人が出現してから約4万年。当然、彼ら以前の人類が使っていた言語は、「話し言葉』が中心であったろう。クロマニヨン人も話し言葉中心だったろうが、そこに高度な思考も混ぜることが出来るようになったのだ。
 書き言葉はそれと比べれば、歴史が浅い。世界最古の小説「源氏物語」から約1千年。現代の小説の原型になった「ドン・キホーテ」から約400年。それ以前にも、ヨーロッパでも「騎士道物語」などの口承文学はあった。日本でも、口承文学はあった。

「むかしむかし、あるところに おじいさんと おばあさんが いました。」
    おじいさんは 山へ 芝刈りに、おばあさんは 川へ 洗濯に . . . 」

 よく「既知・未知」の例として挙げられるこの文だが、これは明らかに、口承文学の名残りにすぎない。現実認識伝達として、「あるところにおじいさんとおばあさんがいました。」と、聞き手に伝達し、物語という夢想世界へ導いているのだ。
 これは、児童文学作品にもよくあることで、冒頭部分では「これから、なになにちゃんという、こまったちゃんのお話をしますよ。」と子どもに語りかけ、それから語りかける口調がなくなり、物語の本編に入っていく。リンドグレーンなどが愛用している手だ。

 文学体験は、われわれが睡眠中に見る「夢」に似ている。現実ではない。しかし、意識にとって、現実の同じくらいにリアリティーを持っている。さらに、心理学で言うところの「箱庭療法」同様に、心のありように大きな影響を持っている。しかし、睡眠中の夢ではないので、私は夢想、もしくは夢想世界と名づけている。それは、現実世界とは別に、私たちの心の中(内界)に生まれるものだ。 映画も落語も、みな、夢想世界を頭の中に作り出すための手段にすぎない。スクリーンを見ながら、実は、心の中の夢想世界を体験しているのだ。落語家を見ながら、夢想世界を体験しているのだ。

 恣意的と思われるのは嫌だから、手元にある「20世紀の世界文学」(新潮臨時増刊号)で、小説の冒頭を見てみよう。ただし、詩、独白体、手紙体など、特殊な作品は除くこととする。

(1)婦人監督が、女たちがお茶をおえたら、すぐに出かけていいわと言ってくれたので、マライア夕方の外出を心待ちにしていた。(「土」 ジョイス)
(2)万里の長城の建設もっと北のところで完了をみた。(「万里の長城」カフカ)
(3)氷河、マンモス、荒野。どこか家の形に似た夜のなかの黒い岩、岩。その岩のなかに洞窟ある。そして、だれかわからぬが、岩と岩の間の医師の細い道で夜、ラッパのような声を出し、この細い道をかぎ回り、白い粉雪をまき散らす者いる。(「洞窟』 ザミャーチン)
(4)ローズマリー・フェルト、とくに美人というわけではありません。いや、美人などととてもいえません。(一杯の茶 マンスフィールド)

 翻訳だろうが、日本語である。無作為に選んだ中で、冒頭に「が」が用いられているのは(3)のみである。読んでもらえばわかるように、夢想世界への導入として、「が」が用いられている。
 それ以外は、いきなり夢想世界を作家が語りだしている。とうぜん「は」が使われている。この夢想世界では、「は」が主役になり、物語が作られていく。その世界の登場人物が、五感認識伝達したときに「が」が出現する。「が」が出てきたときは、物語が大きく進展するときである、といっていいだろう。これが、物語における「は」と「が」の役割である。

 既知・未知派の主張によると、(4)などは、ローズマリー・フェルトのことを私たち全員が知っていることを前提にして作者が書いていることになり、ローズマリー・フェルトは既知情報になってしまう。そういわれても、困ってしまうんですけど……。そんな人物、会ったことも見たこともなく、私はまったく知らない人物なんだから。


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by spanky2011th | 2011-07-10 09:26 | 日本語 助詞「は」と「が」

「は」と「が」について(13)

「が」は現象をありのまま表現する文なのか

 既知と未知については、ずいぶん書いてきたので、今回は、これは飛ばす。とにかく、あの国語学者の大野晋までも「は」は既知、「が」が未知というのだから、まず、間違いがないと、多くの人が追随しているだけなのかもしれない。
 今回は、「現象文」について、書こう。といっても、[日本語教師養成講座]で初めて、この言葉に接したので、きょう、吉祥寺の図書館に行き、分厚い「日本語辞典」で調べてみたのだが、載っていない。日本語の文法は、三大文法、四大文法というように、統一されていない。用語も、西洋の最新の言語学の用語が使われていたり、学派、学派で用語がちがう。それに、学校文法が加わるのだから、まったく、専門家以外は口を出せない仕組みになっているのではないか。そう邪推したくなるほどだ。
 そこで、コピペした文で、自分の考えを述べよう。

(2) 現象文か判断文かによって使い分ける方法。
現象をありのままに、話し手の主観的な判断を加えずにそのまま表現する文を「現象文」と呼び、現象文の主格には「が」が付く。こ れに対して、現象に対して話し手が主観的な判断を加えて表現する文を「判断文」と呼び、判断文の主格には「は」が付く。以上のことを基準にして使い分ける方法である。
  (目の前の犬を見て)犬が寝そべっ ている。(現象文)
  (他の人に間違えて持って行かれそうになった傘を指して) それは私の傘です。(判断文)


 「現象文」というネーミングがまず名が体を表していない。「地球は太陽の周りを回っている」も現象だし、「夫婦喧嘩は犬も食わない」も現象だ。名を付けるのなら、見ただけで、内容のわかるようにしてもらいたい。
 しかし、「現象(私流に言うと、現実世界に存在するモノ・コト)をありのままに、話し手の主観的な判断を加えずにそのまま表現」すれば、その「文」には「が」が用いられる。これには反対しない。しかし、「全世界が、全宇宙が、あなたの試みを賞賛するでしょう」というような文が、実際にはたくさん存在している。「全宇宙が賞賛している」などという現象があるのだろうか。また、その文には、話し手の主観が反映していないだろうか(いや、反映されている。というより、主観そのものではないか)。
 
 私たちの言語活動は、認識だけの一方通行ではなく、伝達の逆方向もある。「全世界が、全宇宙が、あなたの試みを賞賛するでしょう」は、逆方向の伝達の言語である。話し手が思索し、その結果、現実世界でおきている「コト」と実感して、それを相手に伝えようとするときには「が」を使って伝達するのだ。「ガリレオの地動説が、それ以前の天動説を駆逐した」というような文も、実際に現実世界でおきたコトと実感しているから話し手が使い、聞き手もそうだと実感を伴って聞く。
 つまり、一番のポイントは「現実世界」ということだ。そこに存在する「モノ」と「コト」は、陳述構文で表現される。そして、この場合、「が」が用いられる、と思えばいい。
 「地球は太陽の周りを回っている」も、将来的に有人ロケットが宇宙に飛びだし、太陽の周りを回っている地球を目撃した場合、その飛行士が日本人だったら、「地球が太陽の周りを回っている」と、いうだろう。
 判断文の例としてあげている「それは私の傘です。」は、判断、つまり内界言語である。「が」に変わるときは、別のニュアンスを付け加えたいとき(それが私の傘です)だ。





              現実世界
                (外界)
           認 ↓      ↑伝
           識 ↓      ↑達

               五感
       …………………… 意識……………………
   (音楽脳)         未那識          (言語脳)
   物   内      阿騾頼耶識      内   論
   語   界      阿摩羅識       界   理

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by spanky2011th | 2011-07-09 10:43 | 日本語 助詞「は」と「が」

「は」と「が」について(12)

「は」が「が」についての一般的解釈

 最近、日本語の本ばかり読んでいる。そして、日本語のことばかりググッ(google)ている。そしたら、でてきました。私が主張している「五感認識伝達」に近いことをいっているところが……。 
 「日本語教師になるための教育」文法では、私がいう「五感認識伝達」を「現象文」といっているようだ。
 じっくりと、一つ一つ考えていこうと思うが、まずはとにかく一般的解釈を知るために、以下・コピペして、そのまま紹介します。


………………………………………………………………………………
日本語教育に関するFAQ


Q: 助詞の「は」と「が」の使い分けについて教えてください。

A: お答えいたします。

■『は』(副助詞)と『が』(格助詞)の使い分け

●「既知(すでに知っている)・旧情報」は「は」/
 「未知(まだ知らない)・新情報」は「が」

次の例を見てください。

例1:「むかしむかし、あるところに おじいさんと おばあさんが いました。
    おじいさんは 山へ 芝刈りに、おばあさんは 川へ 洗濯に . . . 」

初めの方の文では、「おじいさん」と「おばあさん」は(話し手は知っているが、
聞き手はまだ知らない)新しい情報として提示されているために「が」が使われ、
後の方の文では、(話し手だけでなく、聞き手もすでに知っている)情報であると
いうことで「は」が使われています。

例2:「誰が窓を割ったんだ?」

この例では、話し手自身が「窓を割った」人物が「誰」であるのかを知らない
(未知)ために、「が」が使われています。

………………………………………………………………………………
[日本語教師養成講座]より

「は」と「が」の使い分け 
 5. 言語一般 日本語の構造 文法


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by spanky2011th | 2011-07-08 21:34 | 日本語 助詞「は」と「が」

「は」と「が」について(11)

「はが文」の「は」が消えるとき

 「にわにはにわにわとりがいる」の文は知っていることと思う。言うまでもなく「庭には二羽ニワトリがいる」だ。
 この文を英語文法で書かれた風にすれば、「二羽のニワトリが庭にいる」と、味も素っ気もない文なってしまう。やはり「庭には二羽ニワトリがいる」の方が日本語っぽくて、私は好きだ。いうまでもなく、「庭には」の「は」が主題を作っている。庭の話ですよー、と。
 では、「庭には二羽ニワトリがいる」の文に「私」を加えてみよう。もちろん、私は見る立場の人間だ。
 「私は、庭にニワトリが二羽いるのを見た。」と「はが文」になってしまう。言葉を置き換えても、「私は、ニワトリが二羽庭にいるのを見た。」「私は、二羽ニワトリが庭にいるのを見た。」と、「はが文」になる。

 前に紹介した「ハとガ」(坂野信彦・著)で、次のような例を引いて、「が」が特異格であるとしていた。
(店で商品選びをしながら)
「これハどう?」
「それハちょっと……」
「じゃあ。これハ?」
「あ、それガいい。」


 話し言葉で「わたしは」が省略されるのは、常識だ。書かれてないが、最後の一行が「はが文」であるのは一目瞭然。書き言葉にすれば、「私はそれがいい。」となる。

 実は、「海が青い」「猫が寝ている」といったような主語の「が」を含む言葉は、「私は、○○○が○○○○○を見た(聞いた/味わったなど、早い話が感じた)。」の省略形ではないのか、と私は思っているほどだ。
 そして、「私は  見た」部分はあまりにも当たり前すぎて、使っている当人も意識しないうちに省略してしまう。聞いている側も当たり前すぎて省略してしまう。それが独自に歩き出しているのが「が」ではないか、と私は思っている。
 この「はが文」がいかに大切であるか、わかってもらえただろうか。


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by spanky2011th | 2011-07-02 15:43 | 日本語 助詞「は」と「が」

「は」と「が」について(10)

「は」と「が」の稀水域

 今朝、何気につけていたテレビが、演歌界の大御所北島三郎ほかが出演した東関東大震災のボランティアコンサートの模様を伝えていた。演歌に興味のない私は、ふーんと聞き流していたら、とつぜん、北島三郎のコメントが流れてきて、私はそれを聴いて、ピピッと反応してしまった。
 そのコメントというのは、

「まだまだ難しい状況が続くと思うが、乗り越えればきっと良いことや楽しいことがある。それを信じてください。」
というものだ。

 最近「は」と「が」に取り憑かれ男状態の私が何に反応したか。いうまでもなく、「は」と「が」である。
 「が」=未知情報、「は」=既知情報ではないと思うのは、こういう言葉を耳にしたときだ。さらに、こっそりと「はが文」が隠されているのに、お気づきだろうか。
 私の立場では、「が」=五感認識伝達で、「は」=内界思索夢想である。この場合は「が」でも「は」でも、どちらでもいい。
 河(現実)から海(内界)へ流れ込む稀水域に、私たちの意識は存在していて、そのどちらともいえないような言葉が確かにある。「は」にすべきか、「が」にすべきか、迷う言葉はこの稀水域にあるといっていいだろう。

 北島三郎の「良いことや楽しいことがある。」の「が」は「は」でも構わないように思う。しかし、これはやはり「が」が正解だろう。聞き手に、この現実世界に、良いこと、楽しいことがある、とリアリティーを持ってその言葉を伝えることができるからだ。
 さて、隠された「はが文」だが、実は「乗り越えれば」の「ば」が、「は」の変身したものなのだ。仮定や条件を主題にしたときに「ば」が用いられるが、もともと「は」だったものだから、簡単に、「-----は」の主題の文にすることができる。
 2、3秒しか時間をとらないだろうから、チャレンジしてもらいたい。そうすれ「ば」、主題であるということ「が」実感してもらえると思う。

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by spanky2011th | 2011-07-01 12:35 | 日本語 助詞「は」と「が」

「は」と「が」について(10)

「はが文」の変形「はは文」について

 夏目漱石の有名な出だし「吾輩は猫である。名前はまだない。」をドッキングさせると、「吾輩は名前はまだない猫である。」になるが、これを今回は料理する。
 いうまでもなくスタンダードは「吾輩は名前がない猫である。」で、この文から、「吾輩は猫である。」「名前がない。」「吾輩は名前がない。」「名前がない猫である。」と、いくつもの文がとりだせる。さらに、加工次第では、「名前がない猫が吾輩である。」や、「吾輩は名前がない猫だにゃあ。」と、いくらでもつくれるのだが、その中の「吾輩は名前がない。」は「はが文」である。これを「はは文」になると、どういうことが起きるのか。

(1)吾輩は名前がない。
(2)吾輩は名前はない。


 たった1つの助詞で、ニュアンスががらりと変わってしまう。読み取れない人はいないと思うが、念のために書くと、(2)は、「名前はないけど、家はある。」「名前はないけど、知恵と勇気はある。」と、別の意味を言外に匂わせるのだ。
 漱石の作品「猫」では、「まだ」がついている。ということは、やがて「名前はつけてもらえるだろう」と、期待感を匂わせているのだが、果たして漱石の猫は名前をつけてもらえたのだろうか。
 なくてもいいのだが、私は「は」が2回続くときには、読点をうつことにしている。「吾輩は、名前はない。」と。
 「は」は「何々の話ですよー」と主題を作る助詞だから、読点をうつことで「吾輩の話ですよー、名前の話ですよー」と、読み手に混乱を引き起こさないためにである。

(1)彼は娘さんが結婚した。
(1)彼は、娘さんは結婚した。


 この場合で考えてみよう。(1)の「が」は現実を淡々と伝達する働きで、「結婚した。」で役目を終えてしまっている。
 ところが、(2)では、「彼の話ですよー」とまず1回目の主題の提示があり、続いて「娘さんの話ですよー」と2回目の主題の提示があって、とつぜん「結婚した。」で話を打ち切られてしまう。読み手は、「えっ」となり、ちゅうぶらりんの、なんじゃこりぁの、欲求不満状態。これが別のニュアンスを生む理由だ。

 「彼は、娘さんは結婚した。が、成田で離婚しちゃったから、いま、大変なんだ。」
 「彼は、娘さんは結婚した。が、息子がまだだから、いま、相手を探しているんだ。」

と、結末まで話されることで、落ち着く文型といえるだろう。

 これと似たので、次のような文もある。

(1)私は100ページの本を10分で読む。
(2)私は、100ページの本は10分で読む。


 やはりニュアンスのちがいをつくりだす。
 学校文法では一つの助動詞としている「である」でも、同じことが起こる。なぜ、ひとつの助動詞であるはずの「である」の真ん中に「は」が簡単に入れるのか、わけがわからないけど。

(1)太宰治の代表作は「人間失格」である。
(2)太宰治の代表作は「人間失格」ではある。

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by spanky2011th | 2011-06-30 15:43 | 日本語 助詞「は」と「が」

「は」と「が」について(9)

はが文について
 
この助詞「は」と「が」の両方を使うパターンが、日本語には結構多い。学校で、少なくても、このくらいのことは教えてもらいたいのだが、この手の授業は、日本全国探しまわっても、どこでもやられていないのではないだろうか。かわりにやっているのが、ほとんど無意味な品詞分解と活用の暗記ばかり。
 さて、「はが文」についてだが、ざーっと思いつくまま、書いてみる。

 彼は耳が欠けている。
 彼は体の色が青い。
 彼はからだが金属だ。
 彼はからだが丸っぽい。
 彼は性格が穏やかで、やさしい。
 彼は声が大山のぶ代にそっくりだ。
 彼はねずみがきらいだ。
 彼はどら焼きが大好きだ。

 ほとんどなんでもありの、品詞のバトルロイヤル状態。では、まったくの無秩序かというと、そんなことはなく、あるルールにのっとっている。
 それは、まず「彼は」と主題(彼の話ですよーという奴です)を提示していることだ。つぎに、五感で認識した耳とか、色とか、性格とか、声とかの「モノ・コト」が提示され、それに対して、それはこうこうこうだ、と説明している。「ハとガ」(坂野信彦・著)を読んでいたら、私の考えと似たことを書いていて、「が」の前が着眼対象、「が」の後を着眼事項と呼んでいる。まあ、とにかく、主題の提示があって、その次に「モノ・ゴト」がきて、最後に「内容」がくる。単純にそれだけで、意味を伝えている。「彼はからだが金属だ。」の文など、いわゆる動詞など一つもなく、名詞と助詞しかない。
 この「はが文」の特徴として、「彼はどら焼きが大好きだ」の「が」が主格の助詞ではなく、目的格の助詞であることだ。書き直してみよう。「彼はどら焼きを好んで食べる」にすることができる。
 この文は単純だからいいが、大学受験のセンター試験の選択肢などで、受験生を落とすためのテクニックとして使われることがある。「が」が主語をつくる助詞だと思い込んでしまっているまじめな受験生は、この「が」の前にバッタバッタと討ち死にしていくのである。

(2)「複数オニ」や「陣オニ」、オニにつかまったものも助かる契機与えられている点で、従来の隠れん坊になかった、擬似的な死の世界から象徴的意味を内包してしまっているということ。(2009年 本試験)

この文章のすごい点は、長〜い「はが文」=「「複数オニ」や「陣オニ」は、オニにつかまったものも助かる契機が与えられている」が、次の「点」という形式名詞にかかっていることだ。「は」と「が」が主語を作る助詞だと信じこんでいる生徒は、途中で頭がこんがらがってしまう。

 この「はが文」は絶滅危惧種とまではいっていないが、いまや、完全な少数派になっていて、見かけることが少なくなってきている。
 というのも、いまや、日本語を日本語のルールで考えない人が増えているからだ。
 「文章読本」で有名な丸谷才一氏も、文で迷ったときには、英語の文法で考えると発言していたのを読んだ記憶がある。わが国が誇るノーベル文学賞作家大江健三郎氏は「頭の中で英語に翻訳しながら作品を書いている」と発言していたのを聴いた覚えがある。次のノーベル文学賞をとるだろう、といわれている村上春樹氏はいうまでもなく著名な翻訳家でもある。
 なにも、これは分筆をなりわいにしているプロだけの話ではない。ネットで見かける文章も、かなりが英語文法で書かれたような日本語だ。ほんと、日本人は、英語の文法はアメリカ人もびっくりするほど勉強し、日本語の文法はしゃべれるんだからいいじゃないか、とばかりに、私を含めて勉強していない。
 学校で教えている先生方も、きっと多くがそうなのではないだろうか。
 うっかり、「彼はからだが金属だ。」と書こうものなら、先生が「日本語は主語-述語がなくてはいけない」と生徒を叱り、「彼のからだは金属で作られている。」と、書き直しを命じかねない。
 そんなかわいそうな状況にあるのが、いまの日本語だ。
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by spanky2011th | 2011-06-29 13:04 | 日本語 助詞「は」と「が」

「は」と「が」について(8)

 私の発想の根本には、東洋思想の九識論がある。西洋思想でもなく、言語学でもなく、九識論なのである。
 人間の生命活動の精神部分を九つの識に分けて考察したものだ。簡単に述べると、五識(眼識/耳識/鼻識/舌識/身識)に、第六識の意識、第七識の未那識(マナ識/知識や経験等が蓄えられる)、第八識の阿騾頼耶識(アラヤ識/意識に上らない無意識やトラウマが蓄えられる)、第九識の阿摩羅識(根本浄識)に分類し、これがダイナミックに関係し合って活動し、日々を生きているというのだ。
 いうまでもなく、私たちは六番目の意識を中心に、日常生活を送っている。しかし、それが精神活動の実態でないことは、深層心理学等で明らかだ。まぁ、変な譬えだが、この意識は会社組織の広報部・もしくは企画部といったところだろうか。
 自分が会社の中心だと思っていても、さまざまな情報が行き交っている会社という有機体の、一部に過ぎない。
 さて、「は」と「が」だが、この意識が五感(五識という言葉はみなに馴染みがないので、こちらを使う。)を通して、外の世界を認識し、判断して、私たちは生きている。大ソクラテス、大カントといった精神界の巨匠たちも、これは変わりはないだろう。この外の世界を認識・伝達するときに、私たちが使っている日本語では「が」が用いられる。
 そして、さまざまな知識と照らし合わせたり、思索したりするときに、「は」が用いられる。私は、そう確信している。
 大ソクラテスも、大カントも、同じように外の世界を認識し、さまざまな思索をめぐらしたに違いないが、彼らが使用していた言語では、その区別はなかったのではないだろうか。

 この二つを、私たちのご先祖様は使い分けて、モノゴトを認識し、伝達し、思索し、夢想し、いまの日本語を作り上げたのだから、ご先祖様はスゴイ。
 とはいっても、実際は、どうもご先祖様は「が」は使わなかったみたいだが。
 ここからは、おチャラケだ。

 一家を養うために、お父さんご先祖様は、クマを捕まえて帰らなくてはいけない。必死にクマの足跡を追い続けている。もう、三日目だ。
どこかで、ムクドリが鳴いている(耳識)。
 クマが枝を折ったあとがある(眼識)。その折れ口を見る。それから触ってみた。
「枝がまだ生乾きだ(身識)。」
 足跡を見て、どちらへ向かったか、判断する。形が崩れずに、くっきりと足跡が残っている(眼識)。が、大きさから見ると、
「このクマは200キロはある大物だ(思索・夢想) 。毛皮がだいぶ取れるぞ(?)。こいつを持って帰ったら、女房の奴はどんな顔をして喜ぶかな。(思索・夢想) 」
 とにかく、だいぶ、追いついてきたみたいだ。あたりを見回す。
 んっ? 見つけたぞ!
 お父さんご先祖様は、草薮の中に、かけこんだ。
 そこには、大きなウンコがあった。お父さんご先祖様は、顔を近づけて、ウンコをじっと観察する。色、つやは申し分なし。健康そのものの、大きなクマだ。小枝を持つと、ウンコを二つに割り、鼻を近づけた。
「すごく強烈な匂いがするぞ(鼻識)。むむむむむ。鼻が曲がりそうだ(身識)。」
 鼻先に、ウンコの温かみが伝わってくる(身識)。
「この暖かさは、二、三時間前にしたものにちがいない(思索・夢想)。」
(舌識の文も作ろうと思ったが、スカトロになりそうなのでやめることにする。)
その翌日、お父さんご先祖様の膝の上に、末娘が乗り、クマのもも肉にかぶりついていた。
「お父ちゃん、ムチムチしていて、噛めば噛むほど、いい味がにじみ出てくるね(舌識)。」


 と、まあ、こんな具合だ。
 1か所、「毛皮がだいぶ取れるぞ(?)。」だけ、? にしておいたが、これは、「このクマからは毛皮がだいぶ取れるぞ」と「はが文」になっていて、ちょっとだけ、五感認識からはみだしているからだ。
 「はが文」というのは、「私は君が好き(形容動詞)」「山は風が強く吹く(動詞)」「日曜日は教室が無人(名詞)。」「彼女は顔が美しい(形容詞)」というように、ほとんどの言葉を受け入れるとても便利な文型で、「主題」は「モノ・コト」が「内容」という構文になっている。
「このクマから(主題)は毛皮(モノ・コト)がだいぶ取れる(内容)ぞ。」
 「はが文」の「が」は、五感認識の範疇にあるような、ないような、微妙なところにいるが、五感認識であることは間違いがなさそうだ。
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by spanky2011th | 2011-06-28 13:02 | 日本語 助詞「は」と「が」

「は」と「が」について(7)

 学校文法に触れよう。
 高校生の娘に、「国語」の教科書を見せてくれ、と頼むと、娘はすごく嫌な顔をして渋々と貸してくれた。
 学校文法では、「は」は副助詞、「が」は格助詞と分類され、まったく別のものと考えられている。
 手元にある辞書では「は」は係助詞となっている。
「ぼくは知らない」「こうなるとは思わなかった」というように、「は」は別のニュアンスを付け加えるから、という理由かららしい。
 それでは「が」は別のニュアンスを付け加えないのだろうか。「ハとガ」(坂野信彦・著)が主張しているように、本来は「は」を用いるところを「が」を用いて、強めることが出来る。ここだけを見ると、特異格というのもうなずける。
 ラーメンに蠅が入っていたとしよう。怒りまくって、
「おい。店長をよべ」となり、店長が出てくる。このときの店長の言葉は、
「わたしが店長です。なにかありましたか。」
と、なる。強まっているようには感じない。
 ところが、同窓会で、みんな、どんな仕事をしているかという話題になったとき、
「わたしはこの街の消防士」
「おれは県立高校の教師」
と、わいわいいっているところへ、一人、
「おれがソフトバ○クの社長だ」
といったら、どう感じるだろうか。
 えらそうに!  なんだ、あいつは、とみんなの顰蹙をかってしまう。
「そういえば、あいつ、勉強はろくにできなかったのに、おれがクラス委員をやる。おれが生徒会長になる。いつも、おれが、おれが、の奴だったよな」
と、嫌われてしまうだろう。

 このときの「が」の解釈だか、多くの学者が陥るのが、「が」にそのような力がある、と解釈してしまうことだ。私は、スタンダードから外れることによってもたらされる効果に過ぎない、と思っている。
 日本人なら誰でも知っている富士山。富士山の岩や砂を細かく分析し、そのデータの山を富士山の山よりも高く積み上げても、私たちが直感的に知っている富士山は再現できない。分析結果、ケイ素比率が○%、鉄比率が○%……といくら綿密に報告しても、富士山にはならない。分析と直感は補いあうべき物であるからだ。
 前にも述べたが、ビンクの口紅がスタンダードである女性がある日、黒い口紅をつけるようなものだ。逆に、既婚女性がお歯黒にするのがスタンダードだった江戸時代に、一人だけ、歯をピンクに染めたとしよう。その時の周りの姿を想像してもらいたい。「黒」には「黒」の力があるが、それと別の力が大きく影響してしまう。
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by spanky2011th | 2011-06-27 13:56 | 日本語 助詞「は」と「が」