カテゴリ:文学論のようなもの( 6 )

近況報告

 ライトノベルに挑戦していると書いたが、取りあえず、第一校は書き上げてしまった。原稿用紙にして、約180枚くらいか。
 ある編集者から教授されたことだが、いまの児童文学の読み手は、ほとんどが女子とのこと。男子は、ゲームなどに走り、ほとんど本を読まないそうだ。
 「黒魔女さん」「若女将は小学生」などを見ればわかるように、女子の支持を集めることができた作品が売れている。これはヤングアダルトでも同様だ。たぶんこの傾向が顕著になったのは、90年代頃からなのではないだろうか。講談社の新人賞が、正統的な児童文学の系譜でなく、ヤングアダルトの系譜の新人に賞をやるようになってから、顕著になってきたような気がする。
 その方々は、期待を裏切ることなく、児童文学をスタート台(悪く言うと、踏み台にして)にして、確実に大人の小説家へと転身していった。 
 いま児童文学に骨を埋める覚悟の作家が、どれだけいるのだろうか。児童文学の出版社も、そういう覚悟の作家を大事にしようとしていない。とにかく、売れること。売れる本を出さないと、老舗の理論社の二の前になる。そうはなりたくない一心で、売れる本を出すことばかり考えている。
 もしくは、教師たちがよろこびそうな「課題図書」ねらいの作品を出すことばかりを考えているみたいだ。課題図書狙い、つまり、感想文が書きやすい作品ということ。
 松谷みよ子、大石真、寺田照夫、舟崎やすひこ、安房直子といった創作児童文学の正当派が評価され、それに憧れて、児童文学をはじめた自分にとって、売らんがために作品を書くのは本意ではないが、そうもいっていられない。

 ヤングアダルトと正統派の大きな違いは、「恋愛」を描くがどうかにあると言っていいだろう。また、思春期の心の揺れを描くかどうかである。
 しかし、人間形成の基礎が築かれる児童期には、児童期だからこそ読むべき物語があってしかるべきだ。児童期を児童らしくすごせなかった人間は、可哀想な気がする。児童期の、豊穣なるファンタジーをふんだんに楽しんだ人は、ゆたかな人生を歩んでいける気がする。
 具体的に述べたいが、もっと、このことは思索してみたい。
 正統派の児童文学の作家たちは、おしなべて、恋愛に対してシャイである。そして、人生や社会に対しての、子供視点の正視眼があったような気がする。そして、豊かなファンタジーをもっていた。
 児童文学が、思春期の心の揺れと、異性に対する憧ればかりの作品だらけとなったときのことを想像すると、寒気がするほど恐ろしい。

 倉橋由美子がいっていたことだが、「もののあわれ」こそが、小説の神髄である。心が大きく揺れること、「あ、われ」と思うこと、これが小説の原動力である。もっとも大きく心が揺れる体験、それが恋愛である。また「死」である。
 そういう意味では、大人を読者とするほとんどの文学者は、怠惰である。安易に、「恋愛」を描き、誰それの「死」を描きさえすれば、そこそこの作品になるのだから。「渡辺O一」のように、この両者をチャンポンにして、過激路線を取りさえすれば、話題性抜群で、ベストセラーまちがいなしなのだから。初期の作品が好きだっただけに、いまの彼にはついていけない。
 一時はややった難病ものの小説などは、読むに耐えない内容なのに、「恋愛」と『死」をチャンポンにしただけで、ベストセラーになってしまっている。
 といっても、まったく大人の文学に絶望しているわけではない。吉田修一の「悪人」のような、すばらしい作品も生み出されている。
 わたしは、基本的に、取材した作品と、私小説は大嫌いというスタンスをとってはいるが、「悪人」はすばらしい作品だった。私小説「死の刺」で打ちのめされたときと同じ衝撃があった。
 ただし、「悪人」は「恋愛小説」ではない。映画「髪結いの亭主」が恋愛映画でなかったのと同様、あの作品では「犯人」と「犯人といっしょにいた女」との間には、恋愛が成立していなかった。そこをうまく描いていたのに、そこを読み込めた人が何人いるのだろうか。映画「悪人」では、それを恋愛映画にしてしまった、その手腕には脱帽ものである。おみごと、と声をかけたくなった。
 
 とにかく、いまは、児童文学にとって、試練のときだ。悪貨は良貨を駆逐するではないが、正統的な作品を書きたいという作家は、ますます貧困に喘ぐことだろう。

 女子の支持を集められなかったら、その本は出版されないだろうということなので、うまれて初めて女の子を主人公にしてみた。ギャル語も、ネットで検索して、使用してみた。
 イケメン(語感がきたなくて使いたくないが)なボーイフレンドも登場させようかともおもったが、今回は登場させなかった。が、そのうち、どこかの作品で登場させなくてはならないだろうから、その傾向と対策をいまから、考えておかなくてはならないだろう。
 集英社の「みらい文庫」の公募に出すつもりでいるが、少し眠らせてから、推敲し、送るつもり。とにかく、めったやたらと書いて書いて、書きまくっている。
 もし、落選したら、このブログで少しずつ、公開するつもりでいる。
 ブログ公開の日が来ないことをのぞんでいるが、逆に、出版はあきらめて、はなからブログ公開で、話題になってから、出版化という手もあるだろうが、そのときは、魂を売り渡して、「純愛」と「難病」と、ほんの少しの「事件性」を交えて書かざるを得ないだろう。
 しかし、「純愛」と「難病」は、自分がもっとも苦手にする所だから、やはり、いまのままでいいか。


 
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by spanky2011th | 2011-11-22 20:54 | 文学論のようなもの

近況報告

56歳になって突然襲ったリストラ。中高年の再就職はむずかしいときいていたが、予想以上で、いままでの出版業界からはきっぱりと足を洗い、正社員になることもすっぱり諦め、アルバイトか契約社員になることを目指し、就職活動を行ってきた。
 そして、ようやく見つけたのが、警備の仕事。収入は、三分の一以下になり、どうやって、生計をたてていくか、そればかりが頭から離れない。
 しかし、こんな体験、滅多にできることではないので、しっかりと体験を味わってみようと覚悟を決めている。
 少ない貯金が底をつく日が近づいてきている。警備の仕事をつづける事により、その日を先延ばしにするしかない。就職活動をしながら、芽が出るのを信じて、いくつかのタネをまいてみた。

 ひとつは、以前書いた「ネコ版剣客商売」の児童文学を、ある編集部に持ち込んだことである。みんな、ご存知のように、氷河期といわれている児童文学出版。出版社存続のため、とにかく売れる作品を出そうと、編集者はやっきになっている。作品としてアラがあろうと、文学として下品であろうと、売れる作品がいい作品なのである。
 大手に持ち込んだので、まず、出版されることはまずないだろう。なぜならば、彼ら大手と、中小の出版社とでは、採算ベースがちがっているからである。
 5千部発刊できればペイする中小なら、それは商売になる「よい作品」となるのだが、大手では、そのラインがちがってくる。
 よって、大手は、売れている作家に、売れそうな作品を書いてもらおうとしていて、それとは別に、未来への投資として、若手の掘り出しには力を注ぐが、56歳になった人の作品は出そうとしないからだ。
 商売になるだろうという本を複数出し、その中でいくつかが、ベストセラーになってくれるか、ロングセラーになってくれれば恩の字というスタンスだ。
 しかし、こんな作品を書こうとしている人間がいるというプレゼンくらいにはなっただろう。

 もう一つまいたタネは、小川未明賞に、これまた「ネコ版ファンタジー」を書いて応募してみた。9月10月は、それの執筆に没頭し、そこそこの作品にはなったものと信じている。生死をテーマにしたので、とにかく頭が疲れた。一時虚脱状態になってしまった。
 生死をテーマにしたものというと、「西の魔女が死んだ」という作品があるが、あれは、作者の生死観が、きれいごとすぎるような気がする。死を美化しすぎている。死を美化したあの作品を読んで、子供たちが、短絡的な自殺願望が生まれてきてしまうのではないか、と心配してしまったほどだ。
 現実に生きている辛さのあまり、鎌倉時代、西方浄土の念仏がとてもはやった。現実に希望を見いだせない人々が、あの教えにより、心の慰めを見いだした側面もあったが、しかし、現実世界への挑戦を放棄してしまった。即身成仏という美名で、自殺者が多数でた。
 マルクスの「宗教はアヘンである」という有名な言葉を思い出す。この言葉、宗教の全面否定の言葉と信じている人が多いみたいだが、経済学者の彼に、宗教を云々するつもりはなかったようだ。当時のキリスト教の一側面を批判したに過ぎない。それは、来世(天国)に救済を求めることにより、心の慰めを得ると同時に、現実変革への意志を放棄していることを、アヘンという言葉を使って、批判したに過ぎない。
 癌の末期の人に、痛みを和らげるために、アヘンが用いられる。しかし、それは、生きることを放棄してもらいたいがためではない。癌と戦い、治ってもらいたいから、処方するのである。
 末期で思い出したが、キューブラ・ロスの「死ぬ瞬間」という名作がある。しかし、彼女にも、美を美化しすぎている傾向があるようだ。やはり、色々な臨死体験をした人の話を集めた学者の本を読んでみると、「天国へと道体験」があるのと同じように、「地獄への道体験」もあるようだ。
 どうも、生きてきた時の生き様が、影響しているようだ。ちょうど、年を取り、高年齢になると、常識とか、世間体を気にしていた人の「心のクセ」が、隠しきれずに、露になってくるのと似ているようだ。
 「ネコ版ファンタジー」で、死を美化せずに書けたがどうか、すこし心配な面もある。

 あとは、結果を待つだけだから、11月になってからは、頭を切り替えて、次の作品に取りかかっている。今度のは、売れることを考えて、ライトノベルに挑戦。落語大好きな自分が、落語の知識をフルに使って、まったくバカバカしい、伝奇要素を取り入れた作品にするつもりだ。もちろん、ライトノベルの公募に出すつもり。

  以上、近況報告までに。

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by spanky2011th | 2011-11-16 10:49 | 文学論のようなもの

3つの「せい」 

3つの「せい」 


 大学一年のときの一般教養での「文学」の講義で、教授が、
「文学には大きなテーマが三つある。それは三つの“せい”である。」
といって、「聖」「政」「性」であると教えてくれた。36、7年前の話だ。私は、なるほどと思った。

 「政」は政治、もしくは社会と言っていいだろう。「性」はセックスというよりも、人間の「さが」といったほうがいいだろう。この二つを扱った文学は、日本にはゴマンとある。が、「聖」を扱った文学は少ないように思う。

 どうも、日本人はそういうことを考えるのは苦手のようで、また、そういうことを考える人を変人扱いする傾向にあるような気がする。というより、その手の物を茶化して、我賢しとする精神風土があるようだ。

 「聖」は、尊厳なるもの、神聖なるもの、といっていいだろう。
 この系譜を考えてみると、古代の神(霊)→卑弥呼に見られる神の代理人→天皇→将軍→国家(天皇)→経済と流れているように思える。ギリシャのように、真善美をその座につけようとしたこともあるが、それは例外的な出来事だろう。
 「聖」なるものは、どんどん世俗化している。
 大雑把すぎるのは百も承知だが、今の「聖」は経済以外は考えられない。しかも、欲しい物をほしがってなぜ悪いのか、と欲望の無放縦な隷属を善しとしている。これが、限界に達した経済が、生き延びるために発見した手段だからだ。
 「経済」を神聖なるものとして祭り上げ、「経済」の繁栄のために、たくさんの不幸な人々が誕生してもやむを得ないものだと思っているように感じる。
 ちょうど、大東亜戦争時、「国家」の繁栄のために、たくさんの人々が犠牲になってもやむを得ないものだと思っていたのと同じように。

 吉本隆明あたりなら、すべてを共同幻想と片付けてしまうのかもしれないが、共同幻想、大いに結構。いまは、「聖」の新たなる共同幻想が必要とされているのだ。
 神話学者キャンベルではないが、「神話はいつの時代でも必要とされているのだ」。「神は死んだ」で有名なニーチェも、単に神を否定したのではなく、神に変わる新しい「聖」を探して、模索し苦闘していたのだ。

 児童文学をやっている人に多いのだが、「国家」「経済」の神聖視に対して、ノーという立場の人々がいる。
 彼らには、なぜか共通する傾向がある。彼らは、揃いも揃って、先祖返りしてしまう。古代の神(霊 アニミズム)に走ってしまうのだ。
 それがなぜなのか、私には理解に苦しむ。宮崎駿のアニメのせいなのではないか、と思ってしまうほど、ワンパターンなのだ。

 マンガやアニメでは「命以上に大切な物があるか」というような台詞があちこちに見受けられる。
「地球よりも重い生命」という台詞も多用される。生命を神聖視すれば、なんとなく、落ち着くところへ落ち着き、なんとなく、読者も編集者も反対しにくい。
 その手の台詞はオールマイティーの切り札なのだろうが、あまりに多用されすぎて、陳腐化してしまっている。 

 作品「神の代理人」は、ある意味、狂信の恐ろしさを書いたつもりだが、いま、「経済」を神に祭り上げた人々が、パウルス四世がしたのと同じことをしているような印象を受ける。
 「経済」を神の座から引きづり下ろし、いまこそ「生命」を尊厳なる物に据えなければならない時が来ている。
 悲しいことだが、口では昔からいわれ続けていることだが、「地球よりも重い生命」が尊厳なる座についたことは一度もない。



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by spanky2011th | 2011-08-07 13:49 | 文学論のようなもの

村上春樹に異変がおきている(2)

どうも、「世間に認めらること」=「その人の価値」という悪いクセを、日本人の多くはもっているようだ。ある有名ブログでも、「ノーベル賞を取るためにも、世界の前で政治や社会の問題について積極的に発言して欲しいと願った」云々と発言がされていた。
 ノーベル賞を取るためには、世界文学の仲間入りしなくてはいけない、とのあせりが、どうも最近の村上春樹には感じられてしまう。世間の無言のプレッシャーがそうさせるのか。
「ノーベル賞を取るためにも、世界の前で政治や社会の問題について積極的に発言して欲しいと願った」云々の発言は、文学をやっている者がまさに気をつけなくてはならない躓きの石なのです。
 みんな、共産主義時代のプロパガンダ文学の不毛さを知っていますよね。
 そして、逆に、その苦悩の坩堝の中から、ショーロフやソルジェニーツィンという偉大な文学者が出てきたのです。
 日本でも同じです。戦時中の国威宣揚文学の不毛さを知っていますよね。
 真の文学を生んだ人々は、何かの目的のために書いたのではないのです。一見そう見えても、あくまでも、個人的な苦悩の答えを求め、悩み、祈り、考え抜いたその結果が、作品となったのです。
 大江健三郎氏と、村上春樹氏とを、同次元で論じてはいけないのです。タイプがちがうのです。
 村上春樹氏がいまやらなくてはならないことは、(いままでやってきたことと同様に)もっともっと個人的な内面の奥底へ奥底へ(まさに、村上作品と同様に)入り込んでいき、現代の病理とも言える「自閉」を描き続けていき、その結果、何か、新しい「気づき」を見つけ出すことです。
 それができたときに、村上春樹氏は世界文学への仲間入りが出来るのではないでしょうか。私たちも、今まで手に入れることが出来なかった、まったく新しい文学を手に入れることが出来るのではないでしょうか。
 日本が世界へ誇れる新しい文学が生まれるとしたら、それは村上春樹氏と村上龍氏からだと思う。

 ジョン・レノン。彼の代表作「イマジン」も、プライベートなことを歌ったモノ,それがたまたま多くの共感を呼び、名作として残っているのです。メビウスの輪のようなものです。プライベートそのものが、世界そのものになる。

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by spanky2011th | 2011-07-03 13:52 | 文学論のようなもの

村上春樹は村上春樹でいてほしい

村上春樹に異変がおきている

 世の中には非常にリスペクトしているのだが、どうしても肌が合わないという人がいる。私にとって、それは村上春樹だ。現代文学だけでなく、現代そのものを語るのにも、村上春樹は欠かせない重要人物だ、と私は思っている。
 デビューした頃より、何度も本を買っては挑戦し、そして肌が合わないと諦め、また、買ってきては挑戦し、そして放棄してきた。
 知り合いが「ぜひ、読んでみて」と借してくれた「ノルウェーの森」も、読もうとしたのだか8分の1くらい読んだところで、「ごめんなさい。どうしても読みきれない」と、恥ずかしながら返却した覚えがある。相手に対して、こんな失礼なことはない。普段は、そんなことは絶対にしない私であるのに……。
 そんな繰り返しで、恥ずかしながら読了したのは「ねじ巻鳥クロニクル」のみで、村上春樹を語る資格がないのは十分に知っている。

 どうしても気になる村上春樹。それでも、どうしても読めない村上春樹。どうして私には彼の作品が読めないのか。乱読派の雑食系の私にとって、それは大きな謎だった。スラリと読める人には理解不能な、別の読書体験である。ある意味、村上体験は、私にとっては自分自身発見体験であった。
 現代人の自閉的な感性、というよりも、病理そのものを語らせたら天下一品。社会規範とか、人間どう生きるべきかという倫理とかに関心がなく、ひたすら、自分の心の中の出来事にしか関心を持たない主人公。たとえば、ジャズだけしか関心がないとか……。
 黄泉国往来譚のスタイルのなかで、この世(現在)とあの世(過去)の境目で、あの世への執着を語り続ける主人公。
 村上春樹がオウム真理教の事件のルポを手がけたとき、やはり、現代の病理を語らせたら天下一品の人物だけあって、反応する場所がちがう、と思ったものだ。よくある、売らんかなのためにルポではなく、春樹自身の必然から、あの聞き書きをやったものだ、と私は理解している。

 私は、そのうち気づきだした。私には、現代人の抱える病理を理解する(または共鳴する)感受性に欠落した、古くさいタイプの人間なのだ、と。外から眺めることは出来ても、中から眺めることは出来ない人間なのだ、と。
 その村上春樹にいま、異変が起きている。
 カタルーニャ国際文学賞の受賞挨拶で、「日本が長年誇ってきた『技術力』神話の崩壊と同時に、日本人の倫理と規範の敗北でもある。」「日本人自身がお膳立てして、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊した」と、語りだしたのだ。その前の、イスラエルでのスピーチは異変の予兆であったらしい。
 ダブル村上の村上龍が語るなら、よくわかる。人殺しとか、大量虐殺とか、やたら暴力的でアンチモラルな描写が多いために、彼は倫理とか規範とかに関心がないと思われているが、彼ほど倫理とか規範とかを考え続けている作家は、現代にはめずらしい。
 作家と作品はちがう、ということは十分に理解しているのだが、村上春樹には、川端康成のような、自分の感性のみのスピーチをしてもらいたい。
 倫理とか規範とかしゃべりだしたら、単なる耄碌じじいになってしまうぞ。

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by spanky2011th | 2011-07-03 08:14 | 文学論のようなもの

この恨み、晴らさでおくものか

 以前、知り合いの作家が「文学者は恨みを晴らす権利がある。だから、嫌な思い出は決して忘れてはいけない」と、語っていた。名言だと思った。
 映画「デトロイト・メタル・シティー」で、松山ケンイチ扮する主役が「この恨み、晴らさでおくものか」と歌うが、歌も文学も、人間の心が生み出すものだから、まずは「心のなかで何かが動くこと」が大切だと思う。
 以前、世界の歌姫というので、サラ・ブ○○○マンのCDをツタヤで借りてきて聴いて、ビックリしたことがある。うまいのである。声がいいのである。でも、なぜか、つまらないと感じてしまったのである。「4分音符以上、みんな、正確なビブラート」と私は思ってしまったのだ。
 そして、なぜか、「お前は初音ミクか」と突っ込みを入れたくなった。
「どう、わたし、すごいでしょう。こんなに歌えるほど、練習したのよ。ねえ、すごいでしょう。すごいでしょう。でも、私の人生、つまらなかった。でも、私の人生、つまらなかった。こんなに歌えるほど、練習したのよ。」と、英語のまったく判らない私には、そんな歌詞に思えてしまったのだ。
 文学も、ある程度の技術は必要だろうけど、高技術=傑作にならないところが面白い。
 リルケの言葉「文学の底には祈りがある」(注=うろ覚え)や、「この恨み、晴らさでおくものか」の作品の方が、私には面白く感じられる。
 最近、superflyの「AH」という歌を聴いて、なぜか、涙ぐんでしまった。「あー」しかない歌で、悲しみの中から立ち上がろうとする人間のけなげさ・たくましさを感じてしまったのだ。言葉はないか、祈りを感じてしまったのだ。「アメーイジング・グレイス」に通じる傑作だと、私は信じている。
 それにつけても、サラ・ブ○○○マンのつまらなさよ。(サラ・ブ○○○マン・ファンのみなさん、ごめんなさい)

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by spanky2011th | 2011-07-01 19:42 | 文学論のようなもの