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「は」と「が」について(10)

「はが文」の変形「はは文」について

 夏目漱石の有名な出だし「吾輩は猫である。名前はまだない。」をドッキングさせると、「吾輩は名前はまだない猫である。」になるが、これを今回は料理する。
 いうまでもなくスタンダードは「吾輩は名前がない猫である。」で、この文から、「吾輩は猫である。」「名前がない。」「吾輩は名前がない。」「名前がない猫である。」と、いくつもの文がとりだせる。さらに、加工次第では、「名前がない猫が吾輩である。」や、「吾輩は名前がない猫だにゃあ。」と、いくらでもつくれるのだが、その中の「吾輩は名前がない。」は「はが文」である。これを「はは文」になると、どういうことが起きるのか。

(1)吾輩は名前がない。
(2)吾輩は名前はない。


 たった1つの助詞で、ニュアンスががらりと変わってしまう。読み取れない人はいないと思うが、念のために書くと、(2)は、「名前はないけど、家はある。」「名前はないけど、知恵と勇気はある。」と、別の意味を言外に匂わせるのだ。
 漱石の作品「猫」では、「まだ」がついている。ということは、やがて「名前はつけてもらえるだろう」と、期待感を匂わせているのだが、果たして漱石の猫は名前をつけてもらえたのだろうか。
 なくてもいいのだが、私は「は」が2回続くときには、読点をうつことにしている。「吾輩は、名前はない。」と。
 「は」は「何々の話ですよー」と主題を作る助詞だから、読点をうつことで「吾輩の話ですよー、名前の話ですよー」と、読み手に混乱を引き起こさないためにである。

(1)彼は娘さんが結婚した。
(1)彼は、娘さんは結婚した。


 この場合で考えてみよう。(1)の「が」は現実を淡々と伝達する働きで、「結婚した。」で役目を終えてしまっている。
 ところが、(2)では、「彼の話ですよー」とまず1回目の主題の提示があり、続いて「娘さんの話ですよー」と2回目の主題の提示があって、とつぜん「結婚した。」で話を打ち切られてしまう。読み手は、「えっ」となり、ちゅうぶらりんの、なんじゃこりぁの、欲求不満状態。これが別のニュアンスを生む理由だ。

 「彼は、娘さんは結婚した。が、成田で離婚しちゃったから、いま、大変なんだ。」
 「彼は、娘さんは結婚した。が、息子がまだだから、いま、相手を探しているんだ。」

と、結末まで話されることで、落ち着く文型といえるだろう。

 これと似たので、次のような文もある。

(1)私は100ページの本を10分で読む。
(2)私は、100ページの本は10分で読む。


 やはりニュアンスのちがいをつくりだす。
 学校文法では一つの助動詞としている「である」でも、同じことが起こる。なぜ、ひとつの助動詞であるはずの「である」の真ん中に「は」が簡単に入れるのか、わけがわからないけど。

(1)太宰治の代表作は「人間失格」である。
(2)太宰治の代表作は「人間失格」ではある。

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by spanky2011th | 2011-06-30 15:43 | 日本語 助詞「は」と「が」

「は」と「が」について(9)

はが文について
 
この助詞「は」と「が」の両方を使うパターンが、日本語には結構多い。学校で、少なくても、このくらいのことは教えてもらいたいのだが、この手の授業は、日本全国探しまわっても、どこでもやられていないのではないだろうか。かわりにやっているのが、ほとんど無意味な品詞分解と活用の暗記ばかり。
 さて、「はが文」についてだが、ざーっと思いつくまま、書いてみる。

 彼は耳が欠けている。
 彼は体の色が青い。
 彼はからだが金属だ。
 彼はからだが丸っぽい。
 彼は性格が穏やかで、やさしい。
 彼は声が大山のぶ代にそっくりだ。
 彼はねずみがきらいだ。
 彼はどら焼きが大好きだ。

 ほとんどなんでもありの、品詞のバトルロイヤル状態。では、まったくの無秩序かというと、そんなことはなく、あるルールにのっとっている。
 それは、まず「彼は」と主題(彼の話ですよーという奴です)を提示していることだ。つぎに、五感で認識した耳とか、色とか、性格とか、声とかの「モノ・コト」が提示され、それに対して、それはこうこうこうだ、と説明している。「ハとガ」(坂野信彦・著)を読んでいたら、私の考えと似たことを書いていて、「が」の前が着眼対象、「が」の後を着眼事項と呼んでいる。まあ、とにかく、主題の提示があって、その次に「モノ・ゴト」がきて、最後に「内容」がくる。単純にそれだけで、意味を伝えている。「彼はからだが金属だ。」の文など、いわゆる動詞など一つもなく、名詞と助詞しかない。
 この「はが文」の特徴として、「彼はどら焼きが大好きだ」の「が」が主格の助詞ではなく、目的格の助詞であることだ。書き直してみよう。「彼はどら焼きを好んで食べる」にすることができる。
 この文は単純だからいいが、大学受験のセンター試験の選択肢などで、受験生を落とすためのテクニックとして使われることがある。「が」が主語をつくる助詞だと思い込んでしまっているまじめな受験生は、この「が」の前にバッタバッタと討ち死にしていくのである。

(2)「複数オニ」や「陣オニ」、オニにつかまったものも助かる契機与えられている点で、従来の隠れん坊になかった、擬似的な死の世界から象徴的意味を内包してしまっているということ。(2009年 本試験)

この文章のすごい点は、長〜い「はが文」=「「複数オニ」や「陣オニ」は、オニにつかまったものも助かる契機が与えられている」が、次の「点」という形式名詞にかかっていることだ。「は」と「が」が主語を作る助詞だと信じこんでいる生徒は、途中で頭がこんがらがってしまう。

 この「はが文」は絶滅危惧種とまではいっていないが、いまや、完全な少数派になっていて、見かけることが少なくなってきている。
 というのも、いまや、日本語を日本語のルールで考えない人が増えているからだ。
 「文章読本」で有名な丸谷才一氏も、文で迷ったときには、英語の文法で考えると発言していたのを読んだ記憶がある。わが国が誇るノーベル文学賞作家大江健三郎氏は「頭の中で英語に翻訳しながら作品を書いている」と発言していたのを聴いた覚えがある。次のノーベル文学賞をとるだろう、といわれている村上春樹氏はいうまでもなく著名な翻訳家でもある。
 なにも、これは分筆をなりわいにしているプロだけの話ではない。ネットで見かける文章も、かなりが英語文法で書かれたような日本語だ。ほんと、日本人は、英語の文法はアメリカ人もびっくりするほど勉強し、日本語の文法はしゃべれるんだからいいじゃないか、とばかりに、私を含めて勉強していない。
 学校で教えている先生方も、きっと多くがそうなのではないだろうか。
 うっかり、「彼はからだが金属だ。」と書こうものなら、先生が「日本語は主語-述語がなくてはいけない」と生徒を叱り、「彼のからだは金属で作られている。」と、書き直しを命じかねない。
 そんなかわいそうな状況にあるのが、いまの日本語だ。
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by spanky2011th | 2011-06-29 13:04 | 日本語 助詞「は」と「が」

「は」と「が」について(8)

 私の発想の根本には、東洋思想の九識論がある。西洋思想でもなく、言語学でもなく、九識論なのである。
 人間の生命活動の精神部分を九つの識に分けて考察したものだ。簡単に述べると、五識(眼識/耳識/鼻識/舌識/身識)に、第六識の意識、第七識の未那識(マナ識/知識や経験等が蓄えられる)、第八識の阿騾頼耶識(アラヤ識/意識に上らない無意識やトラウマが蓄えられる)、第九識の阿摩羅識(根本浄識)に分類し、これがダイナミックに関係し合って活動し、日々を生きているというのだ。
 いうまでもなく、私たちは六番目の意識を中心に、日常生活を送っている。しかし、それが精神活動の実態でないことは、深層心理学等で明らかだ。まぁ、変な譬えだが、この意識は会社組織の広報部・もしくは企画部といったところだろうか。
 自分が会社の中心だと思っていても、さまざまな情報が行き交っている会社という有機体の、一部に過ぎない。
 さて、「は」と「が」だが、この意識が五感(五識という言葉はみなに馴染みがないので、こちらを使う。)を通して、外の世界を認識し、判断して、私たちは生きている。大ソクラテス、大カントといった精神界の巨匠たちも、これは変わりはないだろう。この外の世界を認識・伝達するときに、私たちが使っている日本語では「が」が用いられる。
 そして、さまざまな知識と照らし合わせたり、思索したりするときに、「は」が用いられる。私は、そう確信している。
 大ソクラテスも、大カントも、同じように外の世界を認識し、さまざまな思索をめぐらしたに違いないが、彼らが使用していた言語では、その区別はなかったのではないだろうか。

 この二つを、私たちのご先祖様は使い分けて、モノゴトを認識し、伝達し、思索し、夢想し、いまの日本語を作り上げたのだから、ご先祖様はスゴイ。
 とはいっても、実際は、どうもご先祖様は「が」は使わなかったみたいだが。
 ここからは、おチャラケだ。

 一家を養うために、お父さんご先祖様は、クマを捕まえて帰らなくてはいけない。必死にクマの足跡を追い続けている。もう、三日目だ。
どこかで、ムクドリが鳴いている(耳識)。
 クマが枝を折ったあとがある(眼識)。その折れ口を見る。それから触ってみた。
「枝がまだ生乾きだ(身識)。」
 足跡を見て、どちらへ向かったか、判断する。形が崩れずに、くっきりと足跡が残っている(眼識)。が、大きさから見ると、
「このクマは200キロはある大物だ(思索・夢想) 。毛皮がだいぶ取れるぞ(?)。こいつを持って帰ったら、女房の奴はどんな顔をして喜ぶかな。(思索・夢想) 」
 とにかく、だいぶ、追いついてきたみたいだ。あたりを見回す。
 んっ? 見つけたぞ!
 お父さんご先祖様は、草薮の中に、かけこんだ。
 そこには、大きなウンコがあった。お父さんご先祖様は、顔を近づけて、ウンコをじっと観察する。色、つやは申し分なし。健康そのものの、大きなクマだ。小枝を持つと、ウンコを二つに割り、鼻を近づけた。
「すごく強烈な匂いがするぞ(鼻識)。むむむむむ。鼻が曲がりそうだ(身識)。」
 鼻先に、ウンコの温かみが伝わってくる(身識)。
「この暖かさは、二、三時間前にしたものにちがいない(思索・夢想)。」
(舌識の文も作ろうと思ったが、スカトロになりそうなのでやめることにする。)
その翌日、お父さんご先祖様の膝の上に、末娘が乗り、クマのもも肉にかぶりついていた。
「お父ちゃん、ムチムチしていて、噛めば噛むほど、いい味がにじみ出てくるね(舌識)。」


 と、まあ、こんな具合だ。
 1か所、「毛皮がだいぶ取れるぞ(?)。」だけ、? にしておいたが、これは、「このクマからは毛皮がだいぶ取れるぞ」と「はが文」になっていて、ちょっとだけ、五感認識からはみだしているからだ。
 「はが文」というのは、「私は君が好き(形容動詞)」「山は風が強く吹く(動詞)」「日曜日は教室が無人(名詞)。」「彼女は顔が美しい(形容詞)」というように、ほとんどの言葉を受け入れるとても便利な文型で、「主題」は「モノ・コト」が「内容」という構文になっている。
「このクマから(主題)は毛皮(モノ・コト)がだいぶ取れる(内容)ぞ。」
 「はが文」の「が」は、五感認識の範疇にあるような、ないような、微妙なところにいるが、五感認識であることは間違いがなさそうだ。
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by spanky2011th | 2011-06-28 13:02 | 日本語 助詞「は」と「が」

「は」と「が」について(7)

 学校文法に触れよう。
 高校生の娘に、「国語」の教科書を見せてくれ、と頼むと、娘はすごく嫌な顔をして渋々と貸してくれた。
 学校文法では、「は」は副助詞、「が」は格助詞と分類され、まったく別のものと考えられている。
 手元にある辞書では「は」は係助詞となっている。
「ぼくは知らない」「こうなるとは思わなかった」というように、「は」は別のニュアンスを付け加えるから、という理由かららしい。
 それでは「が」は別のニュアンスを付け加えないのだろうか。「ハとガ」(坂野信彦・著)が主張しているように、本来は「は」を用いるところを「が」を用いて、強めることが出来る。ここだけを見ると、特異格というのもうなずける。
 ラーメンに蠅が入っていたとしよう。怒りまくって、
「おい。店長をよべ」となり、店長が出てくる。このときの店長の言葉は、
「わたしが店長です。なにかありましたか。」
と、なる。強まっているようには感じない。
 ところが、同窓会で、みんな、どんな仕事をしているかという話題になったとき、
「わたしはこの街の消防士」
「おれは県立高校の教師」
と、わいわいいっているところへ、一人、
「おれがソフトバ○クの社長だ」
といったら、どう感じるだろうか。
 えらそうに!  なんだ、あいつは、とみんなの顰蹙をかってしまう。
「そういえば、あいつ、勉強はろくにできなかったのに、おれがクラス委員をやる。おれが生徒会長になる。いつも、おれが、おれが、の奴だったよな」
と、嫌われてしまうだろう。

 このときの「が」の解釈だか、多くの学者が陥るのが、「が」にそのような力がある、と解釈してしまうことだ。私は、スタンダードから外れることによってもたらされる効果に過ぎない、と思っている。
 日本人なら誰でも知っている富士山。富士山の岩や砂を細かく分析し、そのデータの山を富士山の山よりも高く積み上げても、私たちが直感的に知っている富士山は再現できない。分析結果、ケイ素比率が○%、鉄比率が○%……といくら綿密に報告しても、富士山にはならない。分析と直感は補いあうべき物であるからだ。
 前にも述べたが、ビンクの口紅がスタンダードである女性がある日、黒い口紅をつけるようなものだ。逆に、既婚女性がお歯黒にするのがスタンダードだった江戸時代に、一人だけ、歯をピンクに染めたとしよう。その時の周りの姿を想像してもらいたい。「黒」には「黒」の力があるが、それと別の力が大きく影響してしまう。
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by spanky2011th | 2011-06-27 13:56 | 日本語 助詞「は」と「が」

おめでとうございました。は過去形ではない

 結婚式などで来賓挨拶で使われる「おめでとうございました」。最後の「た」を、過去形と解釈して、まちがっていると文句を言っている人が結構いるが、この「た」は過去形ではなく、完了形の「た」だ。
 ノーベル賞でも、芥川賞でも構わない。その候補になった段階では、「おめでとうございました。」も「おめでとうございます。」も使わない。電話がきて、決定した段階で、「おめでとうございました。」になるのである。もちろん、現代では「おめでとうございます。」でもかまわない。

 次の4つの文章。モナリザはすでに見たのか、見てないのか。それを見たのは日本か、パリか。じっくりと考えてみれば、「おめでどうございました。」が正しいことが分かってもらえるはず。

(1)パリにいったときに、モナリザを見るつもりだ。
(2)パリにいくときに、モナリザを見るつもりだ。
(3)パリにいったときに、モナリザを見た。
(4)パリにいくときに、モナリザを見た。

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by spanky2011th | 2011-06-26 21:59 | 日本語はおもしろい

「目的性訓練」の持続が天才を作り出す

 マシュー・サイド著「非才! あなたの子どもを勝者にする成功の科学」という本を、少し前に読んだ。
 卓球選手として英国オリンピック代表になり、その後、ジャーナリストに転身した人物が書いた本で、とても刺激的で面白い本であった。
 要は、「目的性訓練」の持続が天才を作り出すのであって、才能ではないという主張には心底共感した。
 モーツァルトを例にとるならば、彼は天才ではなく、どちらかというと大器晩成型だったと言う話などは、とても興味深く、目から鱗が落ちる気分になった。
 具体的に述べると、音楽教育者の父親の手ほどきを受けたモーツァルトは、3500時間の目的性訓練を受けた頃(1日2時間の練習として5年後当たり)から頭角を現し、10000時間を超えた頃から、真の才能を発揮しだした、というのだ。
 石川遼選手にしても、イチローにしても、みな、目的性訓練を自らに課している。
 逆に、「君は才能がある」と言われてきた人物たちが自分の才能神話を崩さないために、ウソをついたり、誤摩化したりしていく例も紹介されている。
 いま、私は、段階的に発展する、この目的性訓練に主眼を置いた「国語教育」の方法はないか、と思索している。多分、ドリル形式が一番いいのだろう、と思うのだが、それを小学校低学年のときに受けさせる。そうすれば、日本の子どもたちの国語力は大幅に向上するのではないかと思っている。
 その内容は、ここでは触れない。

 娘をヤマハピアノ教室に通わせたときのことだ。その音感教育のメソッドを目の当たりにして、「なるほどこういうことをするから、ヤマハ育ちはちがうのだ」と思ったものだ。絶対音感を身につけさせる教育を、幼児の頃にほどこし、それを育て、選抜し、さらに育てては選抜していく。
 我が家の判断で、娘は小学校進学と同時に、ヤマハは辞めさせて、個人レッスンに切り替えた。先生や教室の雰囲気などもあって一概には言えないが、「ヤマハに通っていると、いずれピアノぎらいになって辞めていく」というウワサも耳にしていたからだ。

 しかし、そのとき、私は、ヤマハのような方法論が日本の国語教育、作文教育にはない、と悲しくなっものだ。十年以上前の話だが。
 作文では、相も変わらず「感じたまま、思ったまま、書きなさい」方式で教え、明治時代に作られた学校文法を後生大事に絶対視し、読解では先生の印象批評としかいえないような解釈がまかり通っている。句読点の読点一つとっても、呼吸で打ちなさい、というような教え方をしていて、読点の法則性には触れようとしない。
 とくに、いま学校が教えている文法(古文を除く)は、大学受験にもでることがない。多分、大学側が、時代遅れの過去の遺物にすぎないことを十分に認識しているからだろう。なにせ、西洋には文法なるものがあって、じゃあ、日本にも文法がなければ恥ずかしい、とばかりに明治時代に急造したのが学校文法な訳だからだ。
 しかし、勘違いしないでほしい。文法の学習など必要ない、といいたいのではない。いな、国際交流が当たり前になったいまほど、学生も教師も、そして、留学生も、みんなが真に納得できる文法が必要とされている時はないのではないだろうか。
 三大文法、四代文法といわれるように、いくつもの説があるのは耳学問で知っているが、それでも、学校文法よりはましだろう。その中で、特に、国語学の研究者の中で、もっとも支持されている文法を採用するだけでも、かなりの変化があるはずだ。
 そんなわけで、日本語をいま、再度勉強し直している。勉強し直してみると、日本語ほど面白いものはないような気がしてくる。不思議だ。

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by spanky2011th | 2011-06-26 21:14 | 世相 妄想随談

加工されない、生の情報が欲しい

 台風被害にあっている九州の人たちには申し訳ない話を書く。許してもらいたい。
 子ども時代に、たまたま台風の目に、住んでいたところが入ったことがあった。一昨年のことだ。ふっと、そんな記憶がよみがえってきた。周りには、台風の雲があるのに、真ん中だけ青空が見えていた……。
 もう一度、台風の目にはいってみたいと、とんでもない思いに取り憑かれた。
 いまは自分は東京に住んでいて、台風が東京を直撃する、と天気予報がいうたびに、台風への備えをし、台風の直撃を待ちわびた。
 しかし、東京直撃の台風はみごとに東京をそれ、太平洋沖を通っていってしまう。それも、一回や二回ではない。
 たしか、台風は自分の力では動けないはず。ジェット気流などに流されて動いていく。そんな怠け者のはずだ。それなのに、どうしてこんなにも天気予報がはずれるのか。
 そこで、台風の進路予想の新聞の切り抜きをノートに貼り、実際に通ったコースを後から記してみた。

 そんなことをしていたら、ある疑問が芽生えてしまった。
 東京直撃の台風情報は加工されているのではないか、という疑問だ。
 これ以上のことを書くと、どうもまずいらしいから、書かない。


 気象予報士も、気象庁が発表すること以上の台風予報の発言すると、苦労して手に入れた気象予報士の資格を剥奪される、らしいから。

 そういえば、私が子どもの頃、台風接近のニュースと同時に、台風は進行方向の右側が風が強くなり、台風から離れた場所で大雨になる、というようなメカニズムの話もしていたように思う。また、屋根が飛ばされるメカニズムのようなものもやっていたように思う。
 いまは、そういうニュースはなくなった。「台風が東京を直撃する可能性が高いので、十分に注意してください。」とアナウンサーが注意を喚起するだけ。そして、被害が出てから、お決まりのように、そのメカニズムを専門家に語ってもらう。
 
 原発事故の初期段階で、私は海外のニュース番組ばかりを見ていた。日本では放送されない、日本の風向きを報道していたからだ。
 私はいいたい。あなた方が思っているほど、バカじゃない、と。加工されない、生の情報が欲しい、と。
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by spanky2011th | 2011-06-26 14:06 | 世相 妄想随談

「は」と「が」について(6)

 「は=既知」「が=未知」信仰を決定的にしたすばらしい問題がある。題述構文と陳述構文での問題にアレンジしたので、チャレンジしてもらいたい。どうあがいても、「は=既知」「が=未知」になってしまう。なんとか例外を見つけようとあがけばあがくほど、日本語の「は」は既知情報で、「が」が未知情報なのではないか、と思えてしまう。ぜひ、例外の見つけ出してほしい。

「あなた(既知)は猫ですか?」
「はい。私(既知)は猫です。」

「だれ(未知)が猫ですか?」
「あそこの彼(未知)が猫です。」

「誰(未知)が屏風に絵を描きましたか?」
「坊主(未知)が絵を描きました。」

「あそこの坊主(既知)は屏風になにを描きましたか?」
「あそこの坊主(既知)は屏風に坊主の絵を描きました。」

「ここに、サイフ(未知)が落ちてるぞ」
「そのサイフ(既知)は私のものです」
 

 未知と呼ばないで、新情報と呼ぶ人たちもいる。
 小説などに使われている「は」と「が」を見ても、おそろしいほどに高い確率で「は=既知」「が=未知」になってしまっている。

「一人の男(未知)がいままさに盗みに入ろうとしていた。男の名(既知)は、ルパン三世。……」


 はじめの導入部で「が」を使い、続く文章では「は」を使う。そういう小説が多い。
 現実世界で起きているモノ・ゴトを淡々と伝達する文章で導入し、次は、主題の「は」になる。
 というより、「五感認識伝達」言語で、ある状況を作り出し、その状況・登場人物の説明として「は」が使われる。読み手の方も、「が」で伝達されてしまい、知ってしまったので、当然のごとく「は」を受け入れることが出来るのだ。

「ルパン三世(既知)は、いままさにお宝に手を触れようとした。とつぜん、一人の女(未知)が現れた。その女は、峰不二子だった。」
 
という具合で、「は」の中に「が」がまじり、「が」が新しい状況を生み出し、物語はどんどん進んでいくのだ。
 「は=既知」「が=未知」であると信じたくなるのも、当然と言えば当然だ。
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by spanky2011th | 2011-06-26 11:29 | 日本語 助詞「は」と「が」

「は」と「が」について(5)


「は」と「が」だけで、よくもこんなにも書くことがあるものだ、と呆れている人もいるだろうが、まだまだ、書きたいことがある。
 東関東大震災を契機に、なにかが大きく変わろうとしている。これを陳述構文の言葉にすると、

①時代が大きく変わろうとしている。
②時代は大きく変わろうとしている。


 この二つが頭に浮かんでくる。
 好みの問題もあるが、私は①を感覚的に採用したい。なぜなら、頭ではなく、五感として、つまり強いリアリティーをもって「時代の変化」を感じるからだ。
 目には見えないし、触ることも出来ない「時代」が確かにあって、それが大きく変化しようとしている。それを感じるからだ。だから、それを伝えたいので、①を採用したい。
 
この「は」と「が」の使い分けは、ある意味、気分によるものだが、たとえば、ニーチェの有名な署名「ツァラトゥストラはこう語った」で、考えてみよう。

①ツァラトゥストラがこう語った
②ツァラトゥストラはこう語った


①の場合は、あくまでも現実を五感で認識し伝達するものだから、その気になれば、場所も時間も、発言内容も、特定できそうだ。そういう現実味がある。
 それに対して、②の場合は、ツァラトゥストラがその生涯を通して語ったことを抽出しているような気がする。それは、「は」が主題を作る格助詞だからである。

 主題というのは、要するに、「なになにの話ですよー」と聞き手に知らせることである。だから、「彼は、娘さんが東大生になったらしいよ。」という文章も作れるし、「こんにゃくは太らない」というような文章もまったく問題がない正しい文章なのである。レストランでの「ぼくはカレーライスだ」も、主題であるから、これまた、まったく問題がない正しい日本語である。

 ところが、私たちが学校で学んでいる文法では、「主語-述語」で文章は構成される、という。というより、信じ込まさせられてきた。主題という考えがない。さらに、日本語の文法よりも真剣に学んだ英語文法「S+V+O+C」などとチャンポンにして、その考えで日本語を考えてしまっている。そういう人がけっこう多い。これまた、主題という概念がない。
 そういう人が、「彼は、娘さんが東大生になったらしいよ。」「こんにゃくは太らない」「ぼくはカレーライスだ」という文章に接すると、首を傾げてしまう。さらに、この日本語は「主語-述語」になっていない、と主張しだす。
 日本語がすべて「主語-述語」でできているというのは迷信に近い愚かな考えであって、「主語-述語」でできているのは、「が」を用いた陳述構文くらいのもので、それ以外はほとんど「「主題-内容」と思っていい。 
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by spanky2011th | 2011-06-25 22:59 | 日本語 助詞「は」と「が」

いまこそ四権分離を考えよう

 かつて四権分離を唱えた人がいた。司法・行政・立法の三権分離に加え、教育権を三権から分離させるべきだ、というのだ。戦前の軍事教育・教育勅語の反省からでた提案であった、と記憶している。
 今回の東日本大震災、福島原発事故を真剣に考えると、教育権が行政から分離されていれば、これほどの被害が拡大することはなかったのではないか、そう思えてならない。 
 たとえば、行政が国策として原子力発電推進に舵を切ったときに、学問の世界が、中立的立場(つまり、あくまでも学問的中立の立場)で、そのことが可能かどうか、またそのときのメリット・デメリットを判断していれば、とてもではないが、原発を推進することはなかったはずだ。
 脳がウソをつくことは、現在の脳科学では常識らしい。推進派に身を投じ、政官産学一体の原子力ムラからの有形・無形のメリットを甘受しているうちに、学問的な中立は薄れ、中立であるべき学者が推進派に有利な学説のみを主張するようになる。
 その学説が古くさく、学問的にはバカバカしいとわかっていても、その学者は社会的の地位も与えられ、莫大な研究費も与えられ、反対派の学者の声を握りつぶすことなど簡単にできてしまう。
 四十年前とは天地雲泥の差がある最新の地震予知研究の成果も、原子力推進派の学者の耳には届かなかった。いまも、届いていないようだ。

 菅内閣が放射能研究の権威として招いた小佐古内閣参与。彼が辞任するという事態は、ひさびさに学問の世界の良心をみる思いがした。
 そして、学問の世界は行政の方針に従うべきだ、という戦前と同じ過ちを犯しながら、それに気づかない政治家には呆れてしまう。
 とくに、辞めた小佐古氏に、内閣参与時代に知り得たことに対して沈黙していなくてはいけない守秘義務があると圧力を加え、口を封じようとした人物がいるらしいが、その人物が誰か、たいへん興味深い。
 学問の世界が、行政をリードしていくべきだ、といっているのではない。行政は、学問の世界を心の底からリスペクトすべきであり、そのためにも、あくまでも学問の世界が学問的中立をいられるように、学問・教育権を分離すべきなのである。
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by spanky2011th | 2011-06-25 20:17 | 世相 妄想随談