<   2011年 07月 ( 40 )   > この月の画像一覧

基本文型1は変幻自在で、神出鬼没(1)

  
   吾輩は猫である。名前はまだない。

 あまりに有名な、この夏目漱石の「吾輩は猫である」の冒頭部分から、話を始めよう。
 英語にすると、「I am a cat.」「I don’t have a name」とでもなるのだろうが、私が扱うのは日本語であって、英語なんてどうでもいいのだ。この文は題述構文である。「吾輩の話ですよー、猫である」「名前の話ですよー、まだない」という具合で、主題が来て、そのあとにその属性が来ているのである。

 実質主義者である私は、この二つの文を同じと見立てる。あまりにも細かく品詞分解するから、名詞述語文だとか、形容詞述語文だとか、意味のないことで頭を悩ませることになるのだ。詞と辞くらいに分解を止めとけばよかったのに。

 一般の文法学者は、自立語に付属語(助詞など)がくっついていて、相手に意味を伝える言葉を作っていると考えている。が、私の場合は考え方が真逆で、まず構文があって、それを助詞が判るようにしていて、「空いたスペース」に自立語を放り込んでいる、と考えている。

 題述構文でいうと、要は「主題」があって、「主題の属性」があるというパターンだ。
 列車の貨車を知っていることと思う。貨車には、貨車の特性が一目でわかるように「ハム」「ワラ」というように印がふってある。これが助詞だ。そうしておいて、貨車の中にポンポンと貨物を放り込んでいる。
 同様に、日本語は脇役の助詞が構文を作り、構文と助詞がつくった空きスペースに、自立語がポンポン放り込まれて、言葉は作り上げられていく。こうやって、日本人は、情報や自分の意志を、相手に伝達しているのだ。ただ言葉を拾い集めてきて、その言葉の違いを分析して、「この助詞にはこういう役目がある』などと分析していないで、ちょっと自省してみれば明白なことである。
 この題述構文の特性は、「陳述構文」とはちがい、語順が決まっている。S+V+O+Cとはちがうのはいうまでもない。

      主題+は+属性+である。

 この属性は無限大と言っていいほどある。

 属性の部分が名詞ならばそのまま、それ以外ならば「の」「こと」という形式名詞を用いて、適当に、このパターンの「スペース」部分に自立語を放り込んでいる。ただ、それだけなのだ。
 大雑把に言って、属性は次のようなものだろう。
ある人物を頭に描いて、その属性をズラズラと並べ立ててみよう。

相(見た目など)……ネコみたいだ。短身だ。耳が欠けてる。声が大山のぶ代にそっくり。など。
性(性格など)……ドラ焼きが好きだ。ネズミが嫌いだ。親切だ。など。
体(物質面)……金属だ。精密機械だ。など。
力(働き)……走る。歩く。歌う。など。
作(外に働きかける作用)……いろいろな発明品で、色々な事件を起こす。など。
因(原因)……博士に作られた。など。
縁(間接的条件)……友だちがノビ太だ。

彼は、ネコみたいである。
彼は、短身である。
彼は、耳が欠けてる。
彼は、声が大山のぶ代にそっくりである。
彼は、ドラ焼きが好きである。
彼は、ネズミが嫌いである。
彼は、親切である。
彼は、金属である。
彼は、精密機械だ。
彼は、走るのである。
彼は、歩くのである。
彼は、歌うのである。
彼は、いろいろな発明品で、色々な事件を起こすのである。
彼は、博士に作られたのである。
彼は、友達がノビ太である。

 
 「である」は助動詞と辞書には書いてあるが、断定の助詞「だ」の連用形に動詞「ある」をくっついたものだという説もある。私は、後者だと思うのである。でなければ、花魁言葉「でありんす」も助動詞ということになるからだ。ここら辺にも、急造の余波がかいま見られる。
 「である」も「だ」も「体現止め」も、同じ仲間であ。「だ」よりも「である」の方が使い手の意志が前面に出てくる。使い手の意志や感情は、助動詞のような些細なところに宿るのだ。

「彼は、友達がノビ太である。」なんて言葉に接したら、英語文法で日本語を考えている先生方は目を剥くに違いない。しかし、日本語はそういう言語なのである。「彼は、娘が結婚したんだ」も同様である。
 学校文法では「主語-述語」にしがみついているので、このような言葉を排斥しようと努力している。

 この中に、『はが文」が忍び込んでいる。「である」を取り除けばいいのだ。

彼は声が大山のぶ代。
彼はドラ焼きが好き。
彼はネズミが嫌い。
彼は友達がノビ太。

 主題も、なにも名詞に限らない。動詞でも、形容詞でも何でもいいのだ。

 仲よきことは、良きことかな。
 美しさは乱調にあり。

 名詞以外の言葉でも、日本語は簡単に名詞化できるようにつくられているのだ。

 これは題述構文の初歩で、実は、これに「飾り」をつけるのが当然になっている。
「吾輩は猫である。」の「猫」に飾りをつければ、

「吾輩は、名前はまだない猫である。」
「吾輩は、名前はまだない。」


となるのである。
 「はは文」である。この「はは文」は、入試問題の出題者のかくれた「受験生を落とすためのテクニック」として使われるが、いつか、がっちりと書いてみたい。

 現役作家で、この飾りの名手だと思うのはなんといっても森見登美彦だろう。

「彼はあまりにも毛だらけで、もはや長老というよりも、知恩寺阿弥陀堂裏に転がったふはふはの毛玉であった。」(有頂天家族)

 この何気ない一文は重文構造になっていて、「彼はあまりにも毛だらけで」のあとに書かれていないが「彼は」があり、その後に「もはや長老というよりも、知恩寺阿弥陀堂裏に転がった」「ふはふはの」の二つの飾りが「毛玉」にかかっている。文型は1Aなのである。
 以後も、
「先年、誰も気づかぬうちにまがうことなきホンモノの毛玉となっており、いつの間にか白玉摩楼中の狸となっていたことは記憶に新しい。
平家物語云々は老い先短い毛玉の見た夢にすぎないとしても、今日もなお、洛中には大勢の狸たちが地を這って暮らしている。……」
という具合で、飾りの部分にも味わいがあるのだ。速読なんてくそくらえ。速読していたら、この味はわからなくなる。



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by spanky2011th | 2011-07-31 16:55 | 日本語  基本の3文型

お役人根性の気象庁に、吹けよ風、呼べよ嵐

 「加工されない、生の情報が欲しい」(6月26日投稿)でも書いたことだが、気象庁の保身主義には呆れてしまう。なにか災害がありそうなとき、的確な予報を出すことが使命のはずであり、気象庁の存在理由であるはずだ。
 予報は予報で100パーセントはありえない。
 外れたときに、その責任を問われるのではないか。外れたときに誰が責任を取るのか。それを畏れるあまりに、やたらと注意報や警報をだしまくる。
 機器も学問も日進月歩で進化しているのに、気象庁はそれを有効に使いこなしていないというのが実態ではないだろうか。問題は、機器などではなく、「お役人根性」という人間の部分にあるのだ。
 予報範囲を拡大し、曖昧にして伝達する。それが日常的に反復されているので、つい周囲は「また、いつものように何も起きやしないさ」と思ってしまう。
 かなり以前だが、河川敷きでキャンプをしていた人たちが鉄砲水で流されるという事故が起きた。そのときに、やたらと警報や注意報を出しまくるのはいかがなものか、と議論されたことがある。
 それは気象庁の話ではないが、お役人根性は同じである。とにかく、自分たちの責任が問われることをまず回避する。国民よりも、まず自分たちの立場や地位が脅かされることを回避し、それから、自分たちに出来る範囲のことをしてお茶を濁しているのではないか、と思える節がある。

 ブログ「大沼安史の個人新聞」は、フクシマの原発事故について、世界中のマスコミがどのように取り上げているか、を詳細に伝えてくれている。
 そこで知ったことだが、

「政府は直ちに気象庁に風向き予想を求め、それをNHKが発表し、それを東大教授が解説しなければならない。
ところが、気象庁は福島原発付近の風向きを出さなかった。
 奇妙なことにNHKは事故から2週間ぐらいたって、「地震で 風向風速計が壊れていたが、昨日から使えるようになった」として風向きの報道を始めたが、実は気象庁は風向きの予想をIAEA(国際原子力機関)には報告 をしていたのだ!!!(武田邦彦 中部大学)」


というのだ。

 私は、震災から数週間、ケーブルテレビで海外のニュース番組を見て福島の風向きを知り、東京の方は大丈夫だな、海の方に風が吹いているから大丈夫だな、と判断していた。
 あまりにも国民をバカにしていないだろうか。まるで、日本の国民は真実を告げたらすぐにでもパニックに陥ると、彼らは信じきっているのではないか、と思うくらいだ。だが、実は、彼らは、国民がパニックになるのを心配しているのではなく、ここでも顔を出すのは「責任を回避して、自分たちの保身をはかる」というお役人根性である。
 このお役人根性が、被爆しないですんだ人たちを被曝させたのではないか。もしそうだとしたら、これはりっぱな犯罪ではないか。
 「ただちに影響の出るレベルではありません」の本当の意味がようやく、私にはわかってきた気がする。被爆した人に影響が出るのは、五年後、十年後。それも、確率論的に何パーセントかだ。原発事故との因果関係も科学的に証明しなくてはならない。誰が見てもそうだと思えても、科学的に証明されなくては、そうだとは断定できないからだ。

 ただちに、自分たちの保身に影響の出るレベルではありません。が本当の意味だったのだ。

 とにかく回避しておけば、それの責任を問われたとき、責任の所在が曖昧となり、自分たちの身分はとりあえず安泰という図式が成り立つからだ。

 その「お役人根性」の見本のようなビデオがある。
 3月19日の政府現地対策本部と福島の市民団体の交渉ビデオ(英語字幕)がユーチューブを通じ、全世界で視聴者を増やしている。

 上記版だけでも「14万人以上」が視聴。この映像は、「フクシマ見殺しビデオ」として、日本政府の統治の正統性を揺るがすものになって行くに違いない。(大沼安史の個人新聞より)





 今日は、気分的にこの音楽が聴きたいので。
Pink Floyd - One Of These Days 
邦題は「吹けよ風、呼べよ嵐」






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by spanky2011th | 2011-07-31 11:54 | 世相 妄想随談(音楽付き)

悪魔の代理人

悪魔の代理人



   ジャコバン僧会も、この世にはじめて現れたときには 
   一見純な姿で登場した、この大団体は
   はじめはちょうど深い水が流れを作らず、
   ぐるぐる円を描いてまわっているようだった。
   はじめのうちはほんのすこししか望まず、
   すこしばかりの敷わらとか茎束とかわら束とか。
   神の御名において足で歩く貧乏人たちに説教した。
   だが足で歩くものたちに働かせるだけだった、
   こうして大金もうけて、僧侶も俗人もいっぱいかかえた、
   地を這う建物を壮大な宮殿に作りかえた。
           (ジャコバン僧会の物語)

 巨大な組織は、まるで生き物のようにふるまう。
 イエスという一人の宗教家の起こした波は、民衆の心に、神への信仰心をかきたてたが、やがて教会ができると、その教会は「穀物が凶作なのは信仰心が薄いからだ」とおどし、また「黒死病がはやったのは教会を裏切ろうとする者がいるからだ」とおどし、民衆の不幸を利用して、教会への布施を集めることに専念した。
 やがてその権力の甘い蜜に酔いしれた者たちは、イエスの心とは裏腹に、聖職者とは名ばかりで、腐敗し、権力争いにあけくれ、民衆を弾圧し、「魔女狩り」の名のもとで多くの民衆を殺しだした。
 一五五五年。ジョバンニ・ピエトロ・カラファという男が教皇の座につき、パウルス四世と名乗った。彼は、七十九才の老人であったが、年のわりには元気がよく、闊歩しては精力的に働いた。
「ルターの真似する奴はことごとく異端であり、破門すべきだ」
 彼が新教皇になる十年前には、あの宗教改革のマルチン・ルターは死んでいたが、彼が火をつけた宗教改革の炎はあちこちでくすぶり続けていた。
 三大発明の一つとされる印刷によって、ルターの本は広く読まれていたのだ。そして、ジョバンニはなんとか、その火を消そうと躍起になっていたのだ。
 トマス・アクティナを尊敬する彼は、骨の髄までガチガチのカトリックで、彼の考えるキリスト教から逸脱するものには、遠慮なく異端のレッテルを張り付けた。
「もし、あの男の母親が、将来こんな男になると思っていたら、生んだときにきっと奴の首をしめていたにちがいない」
 彼のお膝元のローマっ子たちがそういいあっているのを耳にしても、彼は動じなかった。
 かえって、
「やつらになにがわかる」
とパウルス四世はうそぶき、宗教的信念から、異端を排除し、自らの考えに従わせようとした。

 彼は狂信的で独善的であった。彼は、自分の考えのみが正しく、他人の意見に耳を傾けることができなかった。もし、そんな人物が現れようものなら、たちまちベスビオ火山のように突然噴火し、嗄れた声で口汚なくののしり、吠えまくり、そして、盲目的に服従を約束するまで許さなかった。
「神よ。あわれな子羊たちをお救いください。神の代わりに悪魔とその手下たちと私は戦っているのに、だれ一人、心から私の言葉に従おうとしません。かえって、あなたの教えに逆らい、あなたに弓を引こうとしています」
 彼は毎晩、ひとり、教皇室で祈りを捧げた。彼の信仰心はだれにも負けなかった。
 すると、どこからともなく、
「神に逆らうものは悪魔であり、その手下の魔女です。まだまだ、お前の努力は足りない。早く、やつらを取り除きなさい」
という声が聞こえてくる。彼の心の中からも知れなかった。
 彼は歴代教皇の中でも、珍しいほど信仰心が厚く、子どもの頃より、毎日毎日、熱心に祈りを捧げていた。
 その祈りが通じたのか、いつしか、神の声が聞えるようになっていたのだ。
 彼は神のために、老体に鞭を打ち、働きに働いた。
 リューマチで歩けないときでも、教皇庁の木曜会議には欠かさず出席し、そして、異端対策を練るのに余念がなかった。
 プロテスタントは当然として、彼は、民間に伝わる呪術(たとえそれが豊穣や病気克服を祈る素朴なものであっても)を行う者、さらには私通を犯した者、男色、役者、道化、四旬節に肉を食べた者、すべてを死刑にするように命令した。
 また、当然のように、イエスの裏切り者の末裔・ユダヤ人には、迫害を加えるように指示していた。
 やりすぎではないか、という声が枢磯卿の中から上がると、彼はどなり散らしたあとに、
「もし、いまここにイエスさまがいらっしゃったら、私と同じことをするはずだ」
 こう、確信に満ちた声で断言した。



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by spanky2011th | 2011-07-30 21:44 | 童話 私の短編

等身大の宮沢賢治に学ぶこと

だれよりも多く「雨ニモマケ」た宮沢賢治の心の叫び

 「暴走する資本主義」(ライシュ著)によると、私たちはみな「投資家」「消費者」「市民」という顔をもっている、という。いま、問題なのは、「市民」としての顔が弱まりつつあることだ、とも。
 アメリカにはご存知の通り、「ミニットマン」の伝統があった。ミニットマンとは、アメリカ独立戦争当時からの民兵組織で、その由来は、招集されたら1分(minute)で駆けつけるから、というものである(Wikipedia)。強制ではなく、あくまでも自主的に、内発的に、駆けつけたことを忘れてはならない。
 「市民」というのは、困った人がいたら助けてあげる。協力できることは手を携えて協力する、という人間として当たり前のことをすることである。つまり、人間としての、ごく当たり前の感覚を大切にし、その感覚で生きていくことである。

 いま日本人の多くに、聖人として変に祭り上げられている宮沢賢治。彼に関する本を何冊か読んで、いくつか驚いたことがある。
 彼の代表作「銀河鉄道の夜」に影響を与えたとされる軽便鉄道。その出資者の一人が宮沢家であった。
 宮沢賢治が大の音楽ファンであったことは「セロ弾きのゴーシュ」をみればよくわかるが、宮沢賢治は高価なレコードを買い込んだ。その量も半端ではない。レコード会社のコロンビアが宮沢賢治に感謝状を贈っているほどなのだ。僕たちが思っている以上の金持ちだったのだ。財閥の御曹司といってもいいだろう。「銀河鉄道の夜」のクライマックスに流れる「新世界交響曲」も、その高価なレコードで愛聴していたのだろう。
 宮沢家は短命な家系で、詩「永訣の朝」でもわかるように、妹も早死にしている。
 賢治は真剣に、利他的に生きていこうとした。農家の生産性を高めるために、真剣にいろいろなことをした。日本をかけずり回って、営業マンとしても、活動している。
 彼は体を痛めるまで働いた。そして、病に倒れると、実家が引き取りにくる。そこで養生して元気になると、また、賢治はむりを始める。
 こんな御曹司、いまの日本にはいない。「あなたがたとは違うのです」というような人ばかりではないだろうか。「市民」を放棄しているのだろうか。

 そんなことの繰り返しで、彼は死を迎える(昭和8年)。彼のあまりにも有名すぎる詩「雨ニモマケズ」が書かれたのは、死ぬ半年ほど前だろうといわれている。手帳に、こっそりと書かれていたものだ。

〔雨ニモマケズ〕  宮澤賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

 あまり知られていないが、このあとに、次の言葉が書かれている。

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩


 詩の形式を借りた神(仏)へ捧げる言葉だったのだ。リルケが「マルテの手記」で書いた「文学の底には祈りがある』という言葉を思い出さずにいられない。
 昭和11年には二・二六事件が起き、昭和12年には盧溝橋事件が起き、日本はいよいよ戦争へと突入していく。戦時になると、この「雨ニモマケズ」は、軍部・政府によって国民のマインドコントロールの道具として、一気に日本全体に広がる。当人の意志とは関係なく。自分の心からの祈りが軍部に利用されるのを、賢治は見ないで済んだのが、幸いだったといえるだろう。

 苦労して、苦労して、とうとう「ソウイウモノニ」なれなかった宮沢賢治。彼はきっとだれよりも多く「雨ニモマケテ」、「風ニモマケテ」「雪ニモ夏ノ暑サニモマケタ」のだ。だからこそ、心の底から「丈夫ナカラダヲモチ 」たかったのだ。「サウイフモノニ 」なりたかったのだ。

 いま、日本には奇妙な言葉が氾濫している。
「3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震において被害に遭われた皆様に、謹んでお見舞い申し上げますとともに、犠牲になられた方々とご遺族の皆様に対 し、深くお悔やみを申し上げます。一日も早い復旧・復興を心よりお祈り申し上げます。」(ネットにあった言葉をコピペしました)
 という類いのものだ。この言葉のどこに、言葉の使い手の祈りを感じればいいのだろうか。顔の見えない言葉、心のこもらない言葉のみが、アリバイ作りのように叛乱する。

 いま、日本には変な信念が氾濫している。「わたしも負けないで頑張ります」「元気をあげられるように頑張ります」という類いの言葉だ。
 なにかしてもらったら、「元気をもらいました」といわなくてはならないのだろうか。

 被害に遭っている人たちは、泣いていいのだ。怒っていいのだ。おとなしすぎる。泣いていいのだ。悔しがっていいのだ。
 なぜ、みんな、ステレオタイプの言葉を使うのだ。心からの叫びを挙げないのだ。心からの祈りを相手に伝えようとしないのだ。

 賢治がそうだったように、病に倒れたら、養生していいのだ。最愛の妹を亡くしたときの賢治のように、慟哭していいのだ。
 だって、私たちは人間なんだから。心のある人間なんだから。心まで、コピー=ペーストしてどうするのだ。いまの言葉の氾濫を見ていると、心のありようまで、縛りがかかっているような気がする。
 ただ、私はこう祈らずにはいられない。「でも、心の一段落がついたら、ゆっくりと立ち上がってください。」と。
 人間としての、ごく当たり前に感覚を大切にし、その感覚で生きていくことである。

 でも、絶望だけはしないでください。賢治も、死を迎える最後まで、どんなことがあっても希望だけは捨てないで生き抜いていったのです。それが「南無」だったのではないでしょうか。

いま、一番のお気に入りの曲、「Superfly - Ah。」
 悲しみの中から、立ち上がっていく市民のたくましさを感じています。





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by spanky2011th | 2011-07-30 11:19 | 世相 妄想随談(音楽付き)

「教育権の独立」が脱原発の近道

 サッカーの基本は、相手が嫌がることをやれ、である。権力者たちがもっとも嫌うもの、それが教育権の独立である。

 いまの日本(政治などのことです)は変な姿になってきた。というより、もともとそうだったものが、顕在化してきただけなのだ。
 
[ 原発事故に直撃された福島県で今月、脱原発団体が批判する学者や機関と県内の大学との連携の動きが相次いだ。福島大学は独立行政法人・日本原子力研究開発機構(原子力機構)と連携協定を締結。福島県立医大では「年間一〇〇ミリシーベルトの被ばくまで安全」と講演した山下俊一・長崎大教授が副学長に就任した。地元では「大学の権威で、被害の訴えが封じられるのでは」と、懸念する声も漏れている。] 東京新聞(7月28日朝【特報】)

 何度も主張しているが、「教育権の独立」こそが日本の未来を切り開いていく近道である。

 日本には、独裁者もいなければ、カリスマもいない。ただ、利権の旨味をすっている複数の有形無形の組織と人々がいて、それらが複合体をなして、自分たちの都合がいいように、都合がいいようにと、物事を運ぼうとするのだ。
 その典型が、東京新聞で報道されている根回しなのである。
 大学はいま経営危機である。どこも資金繰りに苦しんでいる。たぶん、「連携協定を締結」はそこを突いてきたものだろう。
 京都大学の反原発の研究者たちが冷や飯を食わされていたのも、同じ理由からだろう。
 とにかく、裏からこっそりと「学問の世界」に近づき、自分たちに都合のいい学説を唱えてくれる学者を、組織の中心に据える。
 九電のメール問題も、根っこは同じである。裏からこっそりと仕込む根回しは、気づきにくい。

 全体観と部分観で、物事はみなくてはいけない、といわれている。いまの日本の政財界を見ていると、目先の利益のみに眼がいき、全体観がなくなっている。
 外国から日本が、「衝突回避機能付き行き先不明漂流物である」と揶揄されるのも当然だ。
 利害の対立が起きて衝突しそうになると回避し、まだ、じわじわとまた同じことをやりだす。根本的解決の筋道を模索しようとしない。中国・韓国・ロシアとの国境問題も、「日本の固有の領土」と主張しておきながら、衝突しそうになると回避してしまう。根本的解決を模索しない。

「利権の旨味をすっている複数の有形無形の組織と人々」にとって、理想の人材とはどういうものか。人文科学系、とくに、いま流行の「正義とは何か」というような問題には関心がなく、それでいて、専門分野ではとびきりに優秀な人物だ、といえるだろう。
 いまの大学を見ていると、こういう学生を育てる下請け機関になりさがっているのではないか、と思うところもある。
 「正義とは何か」という倫理に目覚め、専門分野でもとびきりに優秀な人物が、一市民の立場で、政治や経済にも監視の眼を光らしだしたとき、日本は変わりだす。
 「正義とは何か」という倫理に目覚め、専門分野でもとびきりに優秀な人物が、と書いたが、これはたとえだ。去年の暮れ、日本に感動の渦を巻き起こした、たくさんの「タイガーマスク=伊達直人」たちが、一市民の立場で、政治や経済にも監視の眼を光らしだしたときにも、日本は変わりだす。

 復興税の問題が出てくると、必ず、「税の公平な負担」というステレオタイプな言葉がでてくる。しかし、彼らが絶対に口にしない言葉がある。全体観で見れば、あまりにも当たり前すぎることである。
 
「その前に、富の公平な分配がおこなわれているのか」


 最低賃金問題が云々されていたが、これを引き上げられたら、倒産してしまう中小企業がワンサカとある。とにかく、弱肉強食で、弱い立場のものが泣きを見る市場原理のみでいいのだろうか。ここでも、「その前に、富の公平な分配がおこなわれているのか」が問題になる。
 
 震災当日、東電会長は中国にいた。そのとき、マスコミOBもいっしょだったと報道されていたが、このマスコミOBたちは、現役時代、どんな記事を書いていたのだろうか。 
 だれか、調べて教えてくれないものだろうか。



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by spanky2011th | 2011-07-29 19:29 | 世相 妄想随談

日本語の基本はこの3つの構文だ

(1)文型1A 吾輩は名前がまだない猫である。(題述構文)
(2)文型1B 吾輩は名前がまだない。(はが文)
(3)文型2 坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた。(陳述構文)


 日本語のほとんどは、この3つの文型のバリェーションである。というより、これ以外はないと断定してもよいくらいだ。
 この3つを理解できれば、大学のセンター試験くらいは楽々高得点を取れるのだが、日本の学校文法は、文型をベースに日本語を理解しようとしていない。あくまでも、言葉をバラバラに分解した最小単位の「動詞」「名詞」「助詞」……にこだわりすぎているからだ。
 時は、文明開化の明治時代。西洋の学問が怒濤のごとく、日本に入ってきた。科学、政治学、文学……。とにかく、日本は遅れた国で、西洋は進んだ国。とにかく、追いつけ、追い越せとばかりに、有り難がって、日本に無理矢理導入した。
 ウィキペディアによると、日本語の文法はいくつもあり、その中で有力なのが三大文法、四大文法と呼ばれ、統一されていない。その中で、一番古いものをベースにして作り上げられたのが、今の学校文法だ。それも明治時代にだ。
 西洋の言葉(屈折語=言葉の並びで、意味を伝える S+V+O+Cなど)の精密な文法体系を知った学者が、日本語(膠着語=膠でくっつけるように言葉をくっつけて、意味を伝える)でも同じことが出来るはずだと、日本語をこと細かく切り刻んで、分類した。かならず、法則性が見つかるはずだ、絶対的なルールがあるはずだ、と信じて。
 まるで、原発をスタートさせた脳天気な政治家や学者のように。
 核分裂は人間にコントロールできるはずだ。いまは出来なくでも、近い将来夢のような方法が見つかって、核分裂をコントロールできるようになるはずだ。大量の使用済み核燃料も、近い将来、夢のような処理方法が見つかって、万々歳で終わるはずだ、と。
 とにかく、今は、やってしまえ。自信があれば、何でも出来る。とばかりに、日本語のすべての語彙を、分類してしまったのだ。でも、いまだに、法則性が見つかっていない。絶対的なルールがみつかっていない。
 でも、ちがう学問の世界が、日本語の特性に光を当てだしている。そして、新しい文法が生まれようとしている。学校文法を学ぶなら、外国人が学ぶ日本語学校の文法の方が、まだ新しいし、正しい。

 信じられる?  社会の教科書でも、理科の教科書でも、古くなった学説はバンバン捨てられているのに、なぜか、文法だけは、天然記念物のように大事にそのままの状態で保存されている。漢字などは、毎年のようにいじくりまわしているのに、文法だけは手つかずのまま、放置されたまま。
 大学入試には、現代の文法は出ない。
 なぜならば、学校文法が正しいと信じている大学教授がいないからだ。国語学をやっている教授が大学入試に学校文法を出すということは、自分の研究への裏切り行為になるからだ。

 私は文法の研究者でもなれれば、愛好家でもない。ただのド素人だが、何冊か、文法の本も読んだ。あえていえば、時枝誠記の「辞」「詞」に分けるやりかたが、自分の心にストンときた。腑に落ちるというやつだ。昭和十年代に作られた学説だが、実は、その源流は江戸時代にある。
 誰が何といおうと、「ある」(動詞)の反対語は「ない」(形容詞)だと、私は思う。
 「はが文」でいうと、「私は目が青い(形容詞)」も「私は鼻が動く(動詞)」「私はお腹がビヤ樽(名詞)」も、みんな、同じなのである。細かいことにこだわらずにも「辞」「詞」とみれば、見えてくるものがある。



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by spanky2011th | 2011-07-26 22:54 | 日本語  基本の3文型

やめられない、とめられない

 いまから40年前ほど前、私が高校生のとき、地理の先生が授業前に突然、「私たちが気づいたときには、もう止められないという仕組みがある」という趣旨の発言をしたことがあった。
 それは、先生の住む近くに高速道路が建設され、その反対運動をしていて感じたことだそうだ。
 きょう、地デジへの完全移行が行われたが、これも、どこか私たちの知らないところで決定され、スカイツリー建設も決定され、すべて青写真が出来て、組織も作られてから、「2011年7月23日正午地デジ完全移行」という告知が始まる。
 決めるのは、お役所と放送局と、その他もろもろの利益関係組織で、わたしたち利用者はいつも蚊帳の外というのが現状だ。
 いま、気づいている人々は気づいているだろうが、スポンサー離れが激しく、民放は青息吐息で、低予算で番組を作っている。地デジどころの状況ではない。
 ホリエモンがある放送局にレバレッジをかけたころ、こんな状況が来ると誰が予想しただろうか。あのころは、テレビのデジタル・双方向性化で、たとえば番組中にタレントが着ている洋服が、注文をだした数日後に届くように出来る、と夢のようなことが囁かれていた。
 商品が届くことが夢のようなのではなく、バブルがはじけたとはいえ、こんな切り詰めた経済状況になるとは、当時だれも思わなかったのだ。
 民放は、デジタルの特性を活かした、物販なども行うというサイドビジネスに投資する余力もない状況だ。ただ、アナログを廃止しただけで、デジタル移行の旨味が何もない。
 国民の大半がブツブツ文句をいいながらも、デジタル化に従った。しかし、大口のスポンサーがCMを流さないようになり、ここ数ヶ月、デジタル化に一番反対したかったのは、意外にも民放テレビ局ではないのか、と思えてならない。




 一度動き出したら、当事者といえども、止められない。それが今の日本という国のありようではないのか。
 「和を持って尊しとなす国」日本は、なにをやるにも、合議制でやる。はっきりとした意志決定組織をつくらない。責任の所在をはっきりさせない。ずるいのである。
 はじめは小さな組織で、「こんなものじゃないかな」レベルでスタートし、その組織にさまざまな思惑や利害が絡み付き、もたれ合い、互いの思惑や利害を調整しながら、どんどんと組織が大きくなっていく。
 メガ・マシーン化して、私たち国民の目に触れるようになったときには、もう、だれもその動きを止められなくなっている。一市民としては止めたいと思っても、メガ・マシーンの一部に組み込まれた当事者たちは、自分をはじめ多くの人たちの生活がかかっているから、止められない。
 どこへいくのか行き先を決められない、それが日本という国だ。政治家が変えようとしても、官僚組織が止めに入る。官僚が止めようとすると、その官僚は窓際に追いやられてしまう。

 「経済産業省資源エネルギー庁が原発に関するメディア情報を監視してきたことが、本紙の調べで分かった。本年度発注分を含めると、外部委託費の総額は四年間に約一億三千万円に上る。昨年度までは、いずれも電力会社役員らが理事を務める財団法人が受注していた」(東京新聞H23/7/23)
というような、こんな組織まで作られてしまうのだ。

 アウシュビッツ収容所の所長のルドルフ・ヘスを思い出してしまう。彼は信仰心も厚く、家庭人としても立派であったと言われている。
「しかし命令という事が、この虐殺の措置を、私に正しい物と思わせた。当時、私はそれに何らかの熟慮を向けようとはしなかった。私は命令を受けた。だから実行しなければならなかった。」

 原子力がなければ、いまの日本の国は成り立っていかない。とあくまでも、仕事に忠実であり続けようとしている人々がいる。自分の信念に忠実であるのは立派だが、それ以外の生き方があるとは信じられない人人がいる。彼には、大局的な視点しかなく、巻き込まれる被害者のことは念頭にない。その大局的な視点も、自分は偏っているのではないか、という自省する謙虚さもない。
 彼のいう大局的視点というのは、日本全体の国民というのではない。百年後の日本の子どもたちのことでもない。目先の利益にきゅうきゅうとしている、自分の周りにいる経済人たちのことを、大局的視点と信じているのだ。
 戦時中の指導者と同じだ。




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by spanky2011th | 2011-07-24 20:57 | 世相 妄想随談

「は」と「が」について(15)

日本語はいくつもの言語が混在している 

30年近く前に読んだ辻邦生の随筆に、ドン・キホーテと農民のやりとりに触れたものがあった。
 うろ覚えだが、その内容は、道ばたにいた農民にドン・キホーテが「この道をだれか通らなかったか」と質問すると、農民は「羊が一匹通って、また、しばらくして、羊が一匹と通って」と時系列に沿って喋り、それにイラついたドンキホーテが「羊が百匹通った」と言えばすむではないか、といってしまう。すると、農民は「私たちのムラでは、みんな、こうしゃべるのだ」と、反論したというのだ。
 辻は、このエピソードから、近代化以前の人は下部概念で考え、近代化以降の人は上部概念で考えている、というのだ。そして、物語(つまり小説)は、農民の考え方に近いという内容だった。
 元来頭の悪い私は、上部概念・下部概念というのをけっこう長い間考え続けていた。下部概念といっても、「羊」という言葉そのものがすでに抽象化の産物で、上部概念ではないのか、と思ってしまったのだ。羊といっても、同じ羊は二つとしてなく、みな、てんでバラバラ。それを無理矢理捨象して、羊という概念でくくっている。私にはそうとしか、思えなかったのだ。
 そんなことを考えているうちに、私の頭に「自分たちは、二つの言語をうまく使い分けて生きているのではないか」という発想が生まれた。
 現人類ホモ・サピエンス(クロマニヨン人)以前のネアンデルタール人も言語を持っていた。しかし、彼らは言語能力(思考能力)が劣っていたために滅んでしまったのだろう、といわれている。脳の骨格もかなり違うらしい。
 この後から発達した部分が、日本語でいうところの主題の「は」ではないのか、と私は思っている。頭の中のこと、まして有史以前のことだから、立証のしようがない。
 太古の日本人が使っていた言語は、現実を認識する言語。そして、相手に自分の考えを伝達する言語。ともに、現実に根を下ろした「現実認識伝達言語」であったろう。
 そのころは、主語の「が」は使われていなくて、「羊通った」というような、「が」なしであったと思える。
 たまに読む古典を見ても、主題の「は」は見かけるが、主語の「が」は使われていない。しかし「が」が現れていなくても、ゼロ記号として「主語」は存在していた。というより、この主語の方が歴史は当然長くて古いと考えた方が自然だ。
 多分、有史以前に、主題「は」と、主語「が」の混在するいまの日本語のスタイルはできあがっていたのだろう。
 この後から獲得した部分「内界夢想思索言語」は年を重ねるに従い進化し、変化し、複雑化していった。
 一部でいわれている「日本語には主語がなくて、主題がある」という主張は、圧倒的に発達した「内界夢想思索言語」を、分析の俎上にのせたからであろう。
 やはり、この説はいきすぎだろう。主語ありの「現実認識伝達言語」が日本語のベースにあって、その上に、主題による「内界夢想思索言語」が構築されていると考えるのが自然だろう。

 文法をやっている人に共通しているのが、わたしのような発想から考えるのではなく、ただ言葉を集めてきて、ひたすらその違いを分析しているのみ、と私には思えてしまう。いつか、この重箱の隅をつっつく作業をし続ければ、いつか帰納法的に正解にたどリつけると信じているみたいに。
 ベルグソンの「直感」と「分析」の考察は、文法の研究にも有効だと信じている。「直感」を証明するために、厳密な分析による検証が必要だ。つまり、厳密な分析に耐えられない直感はまちがっていると断定していいだろう。
 しかし、いくら分析し続けても、それだけでは意味をなさない。富士山の石をただひたすら近視眼的に分析しても、私たちが直感的に知っている富士山にはならないのだ。たとえ、その分析結果の積み重ねが富士山よりも高く積み上げてみても、私たちの直感には及ばない。

 この直感との関連だが、最近の脳科学では、私たちの認識は、ある意味アバウトなパターン認識であるとされているらしい(この分野も勉強不足で、耳学問くらいの知識がないが)。けして帰納法的ではなく、アバウトにその特徴を捉え、その特徴から同類と分類しているというのだ。
 この世には、まったく同じ羊はいない。太郎が飼っている羊10匹もそれぞれがまったく別の個体で、次郎が飼っている羊20匹も同じだ。もし、私が太郎と次郎からすべての羊を買ったら、私は羊30匹を所有することになる。それぞれの個体の差異は切り捨てて、パターン認識でそれぞれ同じ羊と分類し、 「羊30匹を所有している」となるのだ。
 「羊30匹を所有している」と考え、なんの違和感もないのは、私たちの脳がアバウトなパターン認識をしている、なによりの証拠なのだ。
 太郎の飼っているAという羊が何月何日に生んだ子羊の三番目と、次郎の飼っているBという羊が何月何日に生んだ子羊の二番目とはまったく別なのだから、現実には1+1=2にはならない。
 実際そうなのだ。交通事故で今日、152人の人がなくなったとする。一つ一つに、まったく別の悲劇が隠されていて、単純に数値化できるものではないのだ。
 しかし、私たちはなんの疑問も持たず、152人を受け入れてしまう。
 この抽象化し、数値化し、論理を追っていく 「内界思索言語」は、論文などになっていたのだろう。この時に使われているのは大脳の言語脳であろう。
 逆に、「内界夢想言語」は、有史以前は「神話」を生み出し、現在は無数の「小説」を生み出している。こちらは大脳の非言語脳(音楽脳・ビジュアル脳)をその場としているのであろう。
 しかし、実際は脳梁が右脳・左脳をつないで、瞬間瞬間、ダイナミックな情報交換がされているので、単純に図式化できないが。

 この日本には、無数の文章読本がある。
 有名どころの谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、丸谷才一、井上ひさしなど小説家系は「内界夢想言語」としての文章読本といえるだろう。
 文章の専門家=小説家という考えに「待った」をかけたのは、学者の清水幾太郎で、学生が全うな文章を書けないと「論文の書き方」を著したのだ。以降、さまざまな学者や先生方が「論文(またはレポート)の書き方」という本を出している。
 ある意味、当たり前なのだ。小中高の国語の先生方が教える国語というのは「小説」を中心にした「内界夢想言語」なのだから。
 それもまた当たり前なのだ。語弊はあるが、小中高の国語の先生方のかなりの比率で、将来、小説家や詩人などを目指して大学の国文科に入学し、小説家や詩人では飯が食えないのではないかと、将来への保険として教職課程をとり、小説家や詩人への夢を諦めた人たちがなっているからだ。国語の教師になるぞ、と真面目に国語に取り組み、 「内界思索言語」もしっかりと身につけている人が少ないからだ。
 いっそのこと、論説文の書き方は英数理社の先生方が教えた方がいいのではないか、とおもうレベルなのである。
 小説家系文章読本と学者系文章読本とは別に、もう一つの文章読本がある。新聞記者系による文章読本だ。これは「脳梁系」とでも呼べるハイブリット系で、これを読んだからと言って、小説家になれるわけでもなく、論文がうまくなるわけでもない。しかし、実に実用性のある文章読本だ。まず、読むとすれば、この系統が一番役に立つ。

 私も、「内界思索言語」は苦手にしている。
 社会に出て、ビジネス文の書き方で苦労した記憶がある。
 私がお世話になったある作家は、「筆が荒れる」と称して、作品以外の雑文はできるだけ書かないようにしていた。努力して築き上げた「内界夢想言語」が崩されるのが嫌だったからだろう。



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by spanky2011th | 2011-07-24 12:18 | 日本語 助詞「は」と「が」

Blood, Sweat & Tears

いまの日本の政治に欠けているもの。それは、血と汗と涙。

他人の痛みなら、いくらでも耐えられる。

他人の苦悩なら、微笑みながら見ていられる。

心より祈っています……、と口では同情しながら。

いまの日本に欠けているもの。

それは、人間らしい血と、心地よい汗と、他人のために流す涙。


ということで、いまではほとんどの人が知らないだろうというバンド「Blood, Sweat & Tears」を紹介します。
当時シングル盤の値段で4曲収録のレコードが売られていた。1969年、中学生だった私は、それを自分のお小遣いで初めて買った。その中に入っていたのが、この曲。いま聞くと、カウボーイ風のボーカル、笑っちゃうけど、当時はお気に入りだった。だが、出だしのトランペットは、いま聞いてもカッコいい。


Blood Sweat & Tears - Spinning wheel



Blood, Sweat & Tears live 1970 Japan And When I Die



 ブラス・ロックともジャズ・ロックとも呼ばれ、出だしのトランペットのカッコよさでは、次の曲がサイコー!

Chase - Open Up Wide




で、唐突ですが、十数年前に私のお気に入りになったのが、クラシック(?)の大御所のこの曲だ。

ストラヴィンスキー/ロシア風スケルツォ



以前、NHKの番組で、爆笑問題の太田が坂本龍一に「サザン」の曲をやたらと


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by spanky2011th | 2011-07-23 12:06 | 世相 妄想随談(音楽付き)

日本語を考える人が、エネルギー問題を考えると「こうなる」(2)

 
「教育権の独立」が脱原発の近道

菅直人が唐突に「脱原発依存」宣言をし、脱原発派の人々が勢いづいているはずなのに、なぜか、それほどの勢いを感じない。
 それもこれも、あまりに唐突で、彼の言葉が信用されてない証拠だろう。辞任するはずの人が、最後に名誉心からいいだした、としか思われていないのだ。
 ナウシカの荒れ果てた大地を作ったのは、与謝野薫氏のような、真面目で教養もあり、子どもたちの未来に豊かさを残したいと願っている人々だろう、と以前書いたが、なんの構想もなく、ただ、原発をとめればいい、という問題ではない。
「上司は思いつきでものをいう」というタイトルの本があったが、思いつきで発言する上司にふりまわされた経験のある人なら、この手の人物がいかに厄介であるか、説明するまでもないだろう。また、その手の人物が指揮をとると、まとまる話がまとまらず、ただ混乱を現場にもたらすだけ、というのも納得してくれるだろう。

 言ってしまおう。
 妄想癖のある私は、いまという時代を、消費文明が終焉を迎え、新たな持続可能な、次なる文明の駘蕩期ではないか、と思っている。
 歴史学者トインビーではないが、新しい勢力が古い勢力に挑戦する。しかし、古い勢力もだまっていない。これを潰しにかかろうと応戦してくる。どちらが勝つかはわからないのだ。
 次なる文明がどんなものなのか、私の妄想も追いつかない。ただ、それは持続可能な経済発展を指向したものになることだけは確かだろう。
 平和学者ガルトゥングの「資本主義は遠くの人から搾取し、共産主義は隣の人を抑圧する」ではないが、資本主義も共産主義も限界にきている。
 もともと、その底辺の理念は「自由・平等・博愛」のフランス革命から来ている。
 平等を指向した、偉大なる実験だった共産主義は、テクノクラートという特権階級により、不平等が恒常化し、資本主義よりも早く終焉を迎えた。終焉を迎えるにあたり、テクノクラートはソ連の財産だったもの(国有企業など)をこっそりと私物化し、財閥となった。
 自由を指向したアメリカも、いまや「貧困大国アメリカ」という不名誉なレッテルを貼られてしまっている。アメリカの高学歴高収入の人々も、いつ、貧困に転げ落ちるか、見えない影に怯えている。だから、余計にお金にしがみつく。「暴走する資本主義」(R・ライシュ)が、全世界に貧困を巻き散らかしている。
 以前、私はこんな妄想を心に描いていた。人体の血管のように、多国籍企業のネットワークが全世界を覆うことにより、世界中に富をめぐらせるのではないか、と。
 しかし、それは単なる希望的妄想にすぎなかった。実態は、世界中の富がどんどんとどこかへ消えていき、飢えた子どもたちばかりが増えてしまった。

 とにかく今真っ先にやらなくていけないことは、司法・行政・立法の三権から、教育権を独立させることだろう。
 たとえば、震災復興などというと、銀行系のシンクタンクなどがしゃしゃり出てくる。
 教育権の独立により、震災復興などのプロジェクトは中立的立場の学者にたててもらう。もしくは、賛成派反対派が同数参加して、たててもらう。
 その上で、これに市民運動の人々にも参加してもらい、ともに具体的なシミュレーションをたてるのだ。この現場と学問の世界の交流こそが、遠回りのようだが、一番の近道なのではないか。
 今夜放送されたNHKの「クローズアップ現代」。社会に貢献したいという市民がお金を出す「市民ファンド」。新しい勢力は確実に生まれている。
 脱原発依存も、この学問の世界と、現場の市民の世界との信頼関係が作られて、その上で、彼らが描いた「脱原発シミュレーション」に沿ってすすめていくのが、最良だろうと私は信じている。



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by spanky2011th | 2011-07-21 20:15 | 世相 妄想随談