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近況報告

 ライトノベルに挑戦していると書いたが、取りあえず、第一校は書き上げてしまった。原稿用紙にして、約180枚くらいか。
 ある編集者から教授されたことだが、いまの児童文学の読み手は、ほとんどが女子とのこと。男子は、ゲームなどに走り、ほとんど本を読まないそうだ。
 「黒魔女さん」「若女将は小学生」などを見ればわかるように、女子の支持を集めることができた作品が売れている。これはヤングアダルトでも同様だ。たぶんこの傾向が顕著になったのは、90年代頃からなのではないだろうか。講談社の新人賞が、正統的な児童文学の系譜でなく、ヤングアダルトの系譜の新人に賞をやるようになってから、顕著になってきたような気がする。
 その方々は、期待を裏切ることなく、児童文学をスタート台(悪く言うと、踏み台にして)にして、確実に大人の小説家へと転身していった。 
 いま児童文学に骨を埋める覚悟の作家が、どれだけいるのだろうか。児童文学の出版社も、そういう覚悟の作家を大事にしようとしていない。とにかく、売れること。売れる本を出さないと、老舗の理論社の二の前になる。そうはなりたくない一心で、売れる本を出すことばかり考えている。
 もしくは、教師たちがよろこびそうな「課題図書」ねらいの作品を出すことばかりを考えているみたいだ。課題図書狙い、つまり、感想文が書きやすい作品ということ。
 松谷みよ子、大石真、寺田照夫、舟崎やすひこ、安房直子といった創作児童文学の正当派が評価され、それに憧れて、児童文学をはじめた自分にとって、売らんがために作品を書くのは本意ではないが、そうもいっていられない。

 ヤングアダルトと正統派の大きな違いは、「恋愛」を描くがどうかにあると言っていいだろう。また、思春期の心の揺れを描くかどうかである。
 しかし、人間形成の基礎が築かれる児童期には、児童期だからこそ読むべき物語があってしかるべきだ。児童期を児童らしくすごせなかった人間は、可哀想な気がする。児童期の、豊穣なるファンタジーをふんだんに楽しんだ人は、ゆたかな人生を歩んでいける気がする。
 具体的に述べたいが、もっと、このことは思索してみたい。
 正統派の児童文学の作家たちは、おしなべて、恋愛に対してシャイである。そして、人生や社会に対しての、子供視点の正視眼があったような気がする。そして、豊かなファンタジーをもっていた。
 児童文学が、思春期の心の揺れと、異性に対する憧ればかりの作品だらけとなったときのことを想像すると、寒気がするほど恐ろしい。

 倉橋由美子がいっていたことだが、「もののあわれ」こそが、小説の神髄である。心が大きく揺れること、「あ、われ」と思うこと、これが小説の原動力である。もっとも大きく心が揺れる体験、それが恋愛である。また「死」である。
 そういう意味では、大人を読者とするほとんどの文学者は、怠惰である。安易に、「恋愛」を描き、誰それの「死」を描きさえすれば、そこそこの作品になるのだから。「渡辺O一」のように、この両者をチャンポンにして、過激路線を取りさえすれば、話題性抜群で、ベストセラーまちがいなしなのだから。初期の作品が好きだっただけに、いまの彼にはついていけない。
 一時はややった難病ものの小説などは、読むに耐えない内容なのに、「恋愛」と『死」をチャンポンにしただけで、ベストセラーになってしまっている。
 といっても、まったく大人の文学に絶望しているわけではない。吉田修一の「悪人」のような、すばらしい作品も生み出されている。
 わたしは、基本的に、取材した作品と、私小説は大嫌いというスタンスをとってはいるが、「悪人」はすばらしい作品だった。私小説「死の刺」で打ちのめされたときと同じ衝撃があった。
 ただし、「悪人」は「恋愛小説」ではない。映画「髪結いの亭主」が恋愛映画でなかったのと同様、あの作品では「犯人」と「犯人といっしょにいた女」との間には、恋愛が成立していなかった。そこをうまく描いていたのに、そこを読み込めた人が何人いるのだろうか。映画「悪人」では、それを恋愛映画にしてしまった、その手腕には脱帽ものである。おみごと、と声をかけたくなった。
 
 とにかく、いまは、児童文学にとって、試練のときだ。悪貨は良貨を駆逐するではないが、正統的な作品を書きたいという作家は、ますます貧困に喘ぐことだろう。

 女子の支持を集められなかったら、その本は出版されないだろうということなので、うまれて初めて女の子を主人公にしてみた。ギャル語も、ネットで検索して、使用してみた。
 イケメン(語感がきたなくて使いたくないが)なボーイフレンドも登場させようかともおもったが、今回は登場させなかった。が、そのうち、どこかの作品で登場させなくてはならないだろうから、その傾向と対策をいまから、考えておかなくてはならないだろう。
 集英社の「みらい文庫」の公募に出すつもりでいるが、少し眠らせてから、推敲し、送るつもり。とにかく、めったやたらと書いて書いて、書きまくっている。
 もし、落選したら、このブログで少しずつ、公開するつもりでいる。
 ブログ公開の日が来ないことをのぞんでいるが、逆に、出版はあきらめて、はなからブログ公開で、話題になってから、出版化という手もあるだろうが、そのときは、魂を売り渡して、「純愛」と「難病」と、ほんの少しの「事件性」を交えて書かざるを得ないだろう。
 しかし、「純愛」と「難病」は、自分がもっとも苦手にする所だから、やはり、いまのままでいいか。


 
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by spanky2011th | 2011-11-22 20:54 | 文学論のようなもの

近況報告

56歳になって突然襲ったリストラ。中高年の再就職はむずかしいときいていたが、予想以上で、いままでの出版業界からはきっぱりと足を洗い、正社員になることもすっぱり諦め、アルバイトか契約社員になることを目指し、就職活動を行ってきた。
 そして、ようやく見つけたのが、警備の仕事。収入は、三分の一以下になり、どうやって、生計をたてていくか、そればかりが頭から離れない。
 しかし、こんな体験、滅多にできることではないので、しっかりと体験を味わってみようと覚悟を決めている。
 少ない貯金が底をつく日が近づいてきている。警備の仕事をつづける事により、その日を先延ばしにするしかない。就職活動をしながら、芽が出るのを信じて、いくつかのタネをまいてみた。

 ひとつは、以前書いた「ネコ版剣客商売」の児童文学を、ある編集部に持ち込んだことである。みんな、ご存知のように、氷河期といわれている児童文学出版。出版社存続のため、とにかく売れる作品を出そうと、編集者はやっきになっている。作品としてアラがあろうと、文学として下品であろうと、売れる作品がいい作品なのである。
 大手に持ち込んだので、まず、出版されることはまずないだろう。なぜならば、彼ら大手と、中小の出版社とでは、採算ベースがちがっているからである。
 5千部発刊できればペイする中小なら、それは商売になる「よい作品」となるのだが、大手では、そのラインがちがってくる。
 よって、大手は、売れている作家に、売れそうな作品を書いてもらおうとしていて、それとは別に、未来への投資として、若手の掘り出しには力を注ぐが、56歳になった人の作品は出そうとしないからだ。
 商売になるだろうという本を複数出し、その中でいくつかが、ベストセラーになってくれるか、ロングセラーになってくれれば恩の字というスタンスだ。
 しかし、こんな作品を書こうとしている人間がいるというプレゼンくらいにはなっただろう。

 もう一つまいたタネは、小川未明賞に、これまた「ネコ版ファンタジー」を書いて応募してみた。9月10月は、それの執筆に没頭し、そこそこの作品にはなったものと信じている。生死をテーマにしたので、とにかく頭が疲れた。一時虚脱状態になってしまった。
 生死をテーマにしたものというと、「西の魔女が死んだ」という作品があるが、あれは、作者の生死観が、きれいごとすぎるような気がする。死を美化しすぎている。死を美化したあの作品を読んで、子供たちが、短絡的な自殺願望が生まれてきてしまうのではないか、と心配してしまったほどだ。
 現実に生きている辛さのあまり、鎌倉時代、西方浄土の念仏がとてもはやった。現実に希望を見いだせない人々が、あの教えにより、心の慰めを見いだした側面もあったが、しかし、現実世界への挑戦を放棄してしまった。即身成仏という美名で、自殺者が多数でた。
 マルクスの「宗教はアヘンである」という有名な言葉を思い出す。この言葉、宗教の全面否定の言葉と信じている人が多いみたいだが、経済学者の彼に、宗教を云々するつもりはなかったようだ。当時のキリスト教の一側面を批判したに過ぎない。それは、来世(天国)に救済を求めることにより、心の慰めを得ると同時に、現実変革への意志を放棄していることを、アヘンという言葉を使って、批判したに過ぎない。
 癌の末期の人に、痛みを和らげるために、アヘンが用いられる。しかし、それは、生きることを放棄してもらいたいがためではない。癌と戦い、治ってもらいたいから、処方するのである。
 末期で思い出したが、キューブラ・ロスの「死ぬ瞬間」という名作がある。しかし、彼女にも、美を美化しすぎている傾向があるようだ。やはり、色々な臨死体験をした人の話を集めた学者の本を読んでみると、「天国へと道体験」があるのと同じように、「地獄への道体験」もあるようだ。
 どうも、生きてきた時の生き様が、影響しているようだ。ちょうど、年を取り、高年齢になると、常識とか、世間体を気にしていた人の「心のクセ」が、隠しきれずに、露になってくるのと似ているようだ。
 「ネコ版ファンタジー」で、死を美化せずに書けたがどうか、すこし心配な面もある。

 あとは、結果を待つだけだから、11月になってからは、頭を切り替えて、次の作品に取りかかっている。今度のは、売れることを考えて、ライトノベルに挑戦。落語大好きな自分が、落語の知識をフルに使って、まったくバカバカしい、伝奇要素を取り入れた作品にするつもりだ。もちろん、ライトノベルの公募に出すつもり。

  以上、近況報告までに。

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by spanky2011th | 2011-11-16 10:49 | 文学論のようなもの

世界人口70億人突破


 ついに、世界の人口は70億人を超えてしまった。もちろん、これはよろこぶべきことであって、嘆くべきことではないが、しかし、いまの世界の経済体制は、その70億人の人々をみな幸福にするようにはできていない。
 産業革命以前、つまり人口が少なかった時代に発明されたルールを基本として、それをベースに、さまざまな改良(?)点を加えられて、現代に至っているといっていいだろう。
 世界に飛び火した格差反対デモにみられるように、格差があまりにもひどくなりすぎてしまったのだ。
 いまの経済体制も人間が作ったもので、神とかが作ったものでもなく、永遠不滅の正しい体制であるわけでもない。
 これを擁護するのは、甘い蜜を吸っている人たちだけで、その他の人々はうんざりとしているはずだ。ただ、それに変わる経済体制を思い浮かべることができないでいるだけなのだ。
 とくに、資本主義の弱点をきびしく見つめたマルクスが唱えた経済体制が、あのような形で終焉を迎えた姿を目撃してしまった私たちにとって、特にそうだ。
 そこにあったのは、官僚主義の弊害と、特権化した人々の醜いまでの自己中心主義であった。
 ここにメスを入れた形での経済体制を作れないと、世界には希望までもなくなってしまう。

 それにしても、過去の学説をただ研究しているだけの学者先生が多いのか、大きなスケールと卓越した構成力で、新時代の体制を唱えてくれる学者が出てこないのにはあきれ果ててしまう。
 もしかしたら、学者先生方にも官僚主義が蔓延し、新しい説を唱えたときの、他の学者からの総攻撃を畏れ、事なかれ主義がはびこっているのではないだろうか。

 
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by spanky2011th | 2011-11-01 21:51 | 世相 妄想随談

陳述構文について(2)

 陳述構文で大事な働きをしているのは、動詞である。
 動詞によって、他の要素が決められる。「食べる」「いく」「仲良くする」とさまざまな動詞があるが、この動詞次第で、対格などは決められてしまうと言っていいだろう。
 この対格などという表現も、西洋文法の無理矢理の日本語導入のように感じられるが、日本ではそれらを「てにをは」と呼んできた。 
 私は「てにをは」という表現の方が好きだから、以後、「てにをは」と呼ぶことにしよう。

動詞「食べる」だったら、

 昨日、レストランで、ぼくはスプーンでカレーライスを食べた。

という具合になる。対格「カレーライス」と動詞「食べた」はとなり合うのが自然だ。
「スプーンで」のかわりに「友だちと」とか「友だちといっしょに」とか、その文章に必要な情報をくっつけることができるのだ。

 小学校、中学校の作文のとき、しばしば先生に「おい、主語が抜けてるぞ」と叱られたことがあると思うが、日本語では「主語」(実は主題の「は」)は、それほど重要ではない。もちろん、不必要というわけではない。

 昨日、レストランでカレーを食べたときの話だ。
 カレーを食べていると、とつぜん、雷が鳴りだし、停電になって、真っ暗になった。


 という具合に、主題抜きでも十分に日本語としては通じるのだ。
 内田百閒の文章などを見ると、主題が抜けている場合が多い。「私」の場合、ない方が自然なのだ。もちろん、あっても構わないが。

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by spanky2011th | 2011-11-01 21:27 | 日本語  基本の3文型