<   2012年 01月 ( 3 )   > この月の画像一覧

坂本龍一と桑田圭介

 エレクトリック・マイルスと呼ばれる時代のマイルス・デイビスの作品群の中で、いちばん好きなアルバムはと聞かれたら、迷わず、「パンゲア」「アダルタ」のライブ盤をあげる。ほかもすべて捨てがたいが、聞き込み度からいっても、この二つは、ダントツで聞いていた。
 まるで太古の巨大生物が洞窟の中で生息していて……といった空想が、どこまでも広がっていったものだ。
 いまも、折があると、聞いている。
 私は、そのライブを聴いて、音楽にはスペースというべきものがあり、広がりとか、色とか、さまざまな要素があると言うことを学んだ気がする。
 ギター1本がすべての空間を占めてしまったり、パーカッションの一音が様々な色を持っている。そんなことを学んだような気がする。それを楽しむことを教えてもらった気がする。
 惜しむらくは、自分に絶対音感があって、和音なども聞き取れる音感があれば、もっと深いところまで堪能できるのだろうと思うのだが。

 以前、NHKの番組で、天下の坂本龍一に、爆笑問題ののっぽの方が「サザンオールスターズ」の曲がサイコーだとやたらとしつこく主張していた。そう、サザンの桑田圭介は独自でオンリー・ワンだが、音楽の一部でしかない。
 桑田圭介をけなしているわけではない。
 ただ爆笑問題ののっぽのバカが、新橋の居酒屋にいる酔っぱらいみたいに、自分の意見に固執している姿を見ていて、こういうやつって、多いよな、と思うから書くのだが、日本人の多くは、「メロディーのついた歌詞」のみを音楽と思っているように思う。
 それは、音楽の一部であって、それがすべてではない。もっと、もっと、音楽の世界は裾野が広くて、いろいろな楽しみ方があるのだ。
 たとえば、ラベルの「ボレロ」。たとえば、ドビュシー。たとえば、ストラビンスキー。口ずさみにくいが、すばらしい音楽があるのだ。「ボレロ」などは、スペースと色を楽しむことができない奴には、まさに、ただ延々とつづく同じメロディーにしかすぎないだろう。
 たしか、大昔に読んだ「日本人の脳」という本だったと思うが、虫や鳥の鳴き声を、日本人は言語脳の方で処理していて、西洋人は音楽脳の方で処理しているとあった。「え」「い」「う」というような母音に意味がある日本語。ところが、西洋では「え」「い」「え」だけでは意味をなさず、子音プラス母音の列で、はじめて言語となっている。
 虫の鳴き声(母音)は、西洋人には単なる雑音として処理されてしまう。しかし、日本人には、言語として、情感を感じるというのだ。
 たぶん、そのせいで、日本人の「メロディーのついた歌詞」のみを音楽だと思い込んでいるやつが多いのだろう。

 坂本龍一は、日本では数少ない、スペースとか、色を持った音楽の作れる音楽家。デビューアルバムの「千のナイフ」のときからそうだったのに、その大作曲家に、あのバカののっぽは、「メロディーのついた歌詞」の大家がサイコーとしつこく食いさがったのだ。
 結局、坂本龍一は、苦笑いするだけ。あたりまえだと思う。
 坂本龍一はたぶん、桑田圭介のことを「メロディーのついた歌詞」の大家としてリスペクトしているけど、自分はちがう道を歩んでいることを知っているのだから。
 言語脳+音楽脳で楽しむ音楽もあっていい。
それと同時に、音楽脳だけで楽しむ音楽もあるべきではないだろうか。また、これがあって初めて、本当の音楽の豊かさを享受できるのではないだろうか。
 
ということで、今日は、坂本龍一。


Ryuichi Sakamoto-Energy Flow




 ryuichi sakamoto - rain(live)



[PR]

by spanky2011th | 2012-01-30 21:08 | 世相 妄想随談(音楽付き)

近況

 A小学生新聞の公募用に、210枚の作品をどうにか書き上げた。時間がないので、とにかく書き上げることのみに専心し、どうにか最後までたどり着いたという感じ。
 村上龍の作品を少し意識して、現代よりもほんの少し未来という設定で、福島の原発事故後の、温暖化がせまってきている東京の都心の子供が、都市伝説におびえる様子を描いたもの。とうぜん、そこでは節電が行われていて、重税にあえいでいる人々が、ごく普通に登場している。
 ある意味実にバカバカしい、それでいてREALなものになった気がする。いつもだと、書いたものを何度も読み返し、推敲するのだが、警備の仕事をやるようになり、とにかく時間がないので、ほとんど推敲なしで、応募に出すことになる。
 「ダイブ」や「バッテリー」が大ブレイクしたせいか、たぶん、いまの公募状況は、その手の「スポーツを通して何かを発見していくもの」ものであふれかえっていると思うので、その手のものは避けることにした。
 また、幽霊や魔法や超能力に対しての皮肉も、随所にちりばめたつもりだ。
 まあ、児童文学というのは、この魔法、幽霊、超能力といったものとは親近性があるので、使いたくなるのもわかるが、書き手が安易に寄りかかりすぎている気がしたので、今回は封印してみた。
 かなり以前、ファンタジーを書きたがっている童話作家に、本当に別世界があると思っているのか、聞いてみたことがある。
 すごく困った顔をしていたのを、思い出す。
 
 面白ければ何でもあり、というのは、児童文学では、わたしはやってはいけないことだと思う。
 そのいい加減な態度が、「オウム真理教」や、最近特に目につく「除霊のためにおこなった」という殺人事件の起きる温床となっていると思うからだ。

 何本か書いた作品のうち、公募にかすりもしなかったら、ネット上で公開してもいいかな、とも思っているが、そうならないことを望んでいる。



 娘が、こんな演奏を動画サイトに投稿しました。関心のある方は見て、激励のメッセージでもかき込んであげてください。


[PR]

by spanky2011th | 2012-01-27 15:01 | 世相 妄想随談(音楽付き)

砂時計の落ちた子供たち

 教育格差の問題が数日前の新聞に載っていた。
 ちょうど、いま、書き出している次の作品が、その問題をちょっとデフォルメして、都市伝説なども交えて、現代の病理を描けないかな、と思っていた所なので、その記事を興味深く読んだ。

 教育格差と収入格差の相関関係は、以前より指摘されていたことで、内容的には大したことはないが、数値として出されると「やはりそうか」となる。しかし、あの数値にはゴマカシがある。

 たとえば、高校しか卒業していない両親がいたとする。その両親は低所得だとする。しかし、その両親は、苦労しているので、日常的に様々な本を読んで、たえず学習していたとする。
 そんな家庭で育った子は、学習するのが当然であり、学ぶことの楽しさ、素晴らしさを知っている。当然、大学へ当人も進みたいと思い、両親も進めたいと思っていた。しかし、経済的に……と二の足を踏む。
 奨学制度があると言うが、いまの奨学制度は利息付の奨学制度であり、大学へ進むことによって、社会人になったとたん、多額の借金を背負い込むような制度なのである。「大学は出たけれど」といわれる就職超氷河期のいま、そんな借金を好き好んで背負いたいバカはいない。背負わせたいバカな親はいない。
 大学に合格するだけの学力があるのに、大学進学を諦めている子供が多すぎるのではないのか。

 とくに問題は、大学である。
 たとえば、大学に合格できる学力があっても、大学に支払う経済力のないと、大学生になれないことである。  
 また、大学生になれたとしても、四年間の学費を支払う能力がなければ、大学卒業という「領収書」をもらえないことである。
 そして、この「領収書」が、なぜか、社会では大きな目安になっている。
 理科系はともかくとして、文系の学生は、あまり勉強しないでも卒業できてしまう。 

 本当の意味での学力格差は、本人のやる気と努力で、参考書を買いさえすれば、いくらでも克服できる。

 あんな数値の出し方ではなく、その家庭の両親が日常的に読書をしているのか。学習しているのか。どんな本を、どんなことを学んでいるのか、のデータまでとらなければ意味がないだろう。

 自分の高校二年生の娘のことで恐縮だが、塾に通わせる経済力がないので、中学三年生の一時、塾に通わせただけで、それ意外は独力で勉強してきてもらってきた。その理由も、受験の情報が入ってこないからだった。それでも、勉強好きな娘は、有名な進学校にすすみ、周りの高校生が塾に通っているのに、いまも独力で勉強している。
 欲しい本はアマゾンやヤフオクで購入している。見ていて、涙が出るほど、けなげだ。
 大学へ進み、数学の美しさをきわめてみたい、などといわれると、つらくてならない。
 
 親がともに好奇心旺盛で、関心のあることは図書館で本を借りてきて調べたりしている。暇さえあれば、本を読んでいる両親を見ているので、本を読むのが子供の頃より当たり前になっている。
 そんな親をもっているので、読書や学ぶことは当然だと思ってくれているのだろう。
 
 低所得者の子が、低学力なんて、ウソッぱちだ。
 高所得者の子が高学力なのは、塾や家庭教師をつけているからだ。そして、その子の学力にあった大学に入り、高い大学の学費を払う。同じ学力があっても、低所得者の子はその大学をあきらめる。
 ただ、それだけ。それを延々と繰り返してきただけだ。

 10年、50年単位で長いスパーンで考えれば、日本は、なんと巨大な損失を出しているのだろうか。
 たとえば、最高学府を卒業した低所得者の子と、高所得者の子がいたとすれば、ハングリー精神から言っても、どちらが有益な人材かは一目瞭然ではないか。
 国難とも言われる危機を乗り切れる知恵ある方法を思いつくのは、どちらの子なのだろうか。
 昭和の一時、一億総中流時代の一時、低所得者の子も、大学へ進めた。その人たちが、いまの社会の中枢にいて、「自分たちの時代はこうだった。いまの子はそれと比べると……」とのたまわっているが、いまの子たちの方がずっとシビアな時代になっている。
 一億総中流時代は終わり、砂時計時代になった。中流の砂はみな下へ落ち、上流もきっかけがあれば下へ落ちていく。
 その中の学ぶ意志のある子に、どうか、チャンスをあたえてもらいたい。その子たちが、いずれは日本を救うことになるはずだ。

 だが、日本は、そういう子たちを長期にわたり見捨てつづけてきて、これからも見捨てていくのだろう。

 


人気ブログランキングへ


 
[PR]

by spanky2011th | 2012-01-07 01:52 | 世相 妄想随談