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私の音楽の好み

 いまから四十年以上前の話だ。小学生六年生の修学旅行のときにみんなで歌う歌集を作る係に、私はなった。
なんの曲を入れるか決めるとき、ある女の子が加藤登喜子の「赤い風船」を強く押した。私は、びっくりした。これが修学旅行でみんなで歌う曲か、と。たしか、NHKのみんな歌で、流されていたんだと思う。
 いい曲だけど、交通事後で死んでいく子供の歌なんだぞ、と叫びたかった。でも、結局、修学旅行の歌集に入ることになった。でも、いい曲だな、と思っていた。



 もう少し後の話だ。兄が森山良子のアルバムを買ってきた。その中の一曲に「忘れかけた子守唄」というのがあって、兄がしょっちゅう聞いていた。この曲を検索してみたら、森山良子ではなく、タイガースが歌っているのがヒットした。タイガースが歌っていたなんて、いま、初めて知った。
 
同じ森山良子に 「愛する人に歌わせないで」という曲がある。冒頭が「もう泣かないで坊や」だから、これが曲のタイトルだとばかり、いまのいままで思い込んでしまっていた。
 昭和40年代。学生運動が華やかりしころ。ベトナム戦争が激しく、その報道に胸を痛めていたころ。
 こういうセンチな、社会派な歌が、結構あった。私の性格の一部は、この手の歌に影響されているのはまちがいない。
 いまや、この手の曲は、マンモスやサーベルタイガーと同じ運命を辿り、絶滅してしまった。
 


  中学生になり、深夜のラジオ番組を聞くようになると、洋楽というものにも触れるようになった。ビートルズ、ストーンズ、BS&T、シカゴ、チェイス、ジミ・ヘン、クリーム、ディープ・パープル、ツェッペリンなどを主に聞くようになり、自然と日本の曲とは、おさらばすることとなった。
 その中で、自分の好みに後々にまで影響を及ぼすことになったのは、ピンク・フロイトの「ウマグマ」とマイルス・デイビスの「ビッチェズ・ブリュー」。
 衝撃以外のなにものでもなかった。
 畳に寝そべり、ステレオのスピーカーを頭の左右に置き、目を閉じ、何度も、何度も、聞いたものだ。毎日のように聞いたものだ。
 どうも、14、15歳の頃に衝撃を受けた音楽は、一生、後を引くものらしい。
 いろいろな人と会話していて、たまに音楽の話になると、私は、14、15歳の頃に衝撃を受けた音楽は何か、質問してみることにしている。
 そうすると、その人も、そのときの衝撃を引きずっていることがわかる。
  そういう人に、その曲は、たいした曲じゃないよ、というのはタブー。まるで、人格を全面否定されたように、感じるからだ。
 たまに、Tレックスなどを聞くと、古いなー、と思っている自分がいるのだが、フロイトとマイルスは、少しも古くならないのだ。
 きっと、Tレックスに衝撃を受けた人には、私は古いと感じる曲が、ビビッドに感じられているにちがいない。
 ジェロとか、ジャロとかいう演歌歌手がいるが、彼もきっと、14、15歳の頃に、日本の演歌に衝撃をうけたに違いない、と思うことにしている。

 いまも、フロイトとマイルスは、自分の中では別格の存在だ。
 しかし、私の大好きなフロイトも、別の人に言わせると、つまらない、となるのだ。
 
 マイルスの「ビッチェズ・ブリュー」なんかは、なにをやってるのかわからない、となるのだろう。いかに、つまらない作品か、ぜひ、聞いてもらいたい。
 しかし、私には衝撃が走ったのだ。いま聞いても、40年前と同じに新鮮である。



 ロックはプログレ、ジャズはフュージョン。15歳以降は、これを中心に、音楽は追いかけている。
 ピンクフロイトよりも、80年代以降のキング・クリムゾンの方が、音楽的にすごいことをしているな、と思っても、私にとっては、ナンバー1はピンクフロイトなのである。
 

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by spanky2011th | 2011-12-20 20:43 | 世相 妄想随談(音楽付き)

近況報告

 ライトノベルに挑戦していると書いたが、取りあえず、第一校は書き上げてしまった。原稿用紙にして、約180枚くらいか。
 ある編集者から教授されたことだが、いまの児童文学の読み手は、ほとんどが女子とのこと。男子は、ゲームなどに走り、ほとんど本を読まないそうだ。
 「黒魔女さん」「若女将は小学生」などを見ればわかるように、女子の支持を集めることができた作品が売れている。これはヤングアダルトでも同様だ。たぶんこの傾向が顕著になったのは、90年代頃からなのではないだろうか。講談社の新人賞が、正統的な児童文学の系譜でなく、ヤングアダルトの系譜の新人に賞をやるようになってから、顕著になってきたような気がする。
 その方々は、期待を裏切ることなく、児童文学をスタート台(悪く言うと、踏み台にして)にして、確実に大人の小説家へと転身していった。 
 いま児童文学に骨を埋める覚悟の作家が、どれだけいるのだろうか。児童文学の出版社も、そういう覚悟の作家を大事にしようとしていない。とにかく、売れること。売れる本を出さないと、老舗の理論社の二の前になる。そうはなりたくない一心で、売れる本を出すことばかり考えている。
 もしくは、教師たちがよろこびそうな「課題図書」ねらいの作品を出すことばかりを考えているみたいだ。課題図書狙い、つまり、感想文が書きやすい作品ということ。
 松谷みよ子、大石真、寺田照夫、舟崎やすひこ、安房直子といった創作児童文学の正当派が評価され、それに憧れて、児童文学をはじめた自分にとって、売らんがために作品を書くのは本意ではないが、そうもいっていられない。

 ヤングアダルトと正統派の大きな違いは、「恋愛」を描くがどうかにあると言っていいだろう。また、思春期の心の揺れを描くかどうかである。
 しかし、人間形成の基礎が築かれる児童期には、児童期だからこそ読むべき物語があってしかるべきだ。児童期を児童らしくすごせなかった人間は、可哀想な気がする。児童期の、豊穣なるファンタジーをふんだんに楽しんだ人は、ゆたかな人生を歩んでいける気がする。
 具体的に述べたいが、もっと、このことは思索してみたい。
 正統派の児童文学の作家たちは、おしなべて、恋愛に対してシャイである。そして、人生や社会に対しての、子供視点の正視眼があったような気がする。そして、豊かなファンタジーをもっていた。
 児童文学が、思春期の心の揺れと、異性に対する憧ればかりの作品だらけとなったときのことを想像すると、寒気がするほど恐ろしい。

 倉橋由美子がいっていたことだが、「もののあわれ」こそが、小説の神髄である。心が大きく揺れること、「あ、われ」と思うこと、これが小説の原動力である。もっとも大きく心が揺れる体験、それが恋愛である。また「死」である。
 そういう意味では、大人を読者とするほとんどの文学者は、怠惰である。安易に、「恋愛」を描き、誰それの「死」を描きさえすれば、そこそこの作品になるのだから。「渡辺O一」のように、この両者をチャンポンにして、過激路線を取りさえすれば、話題性抜群で、ベストセラーまちがいなしなのだから。初期の作品が好きだっただけに、いまの彼にはついていけない。
 一時はややった難病ものの小説などは、読むに耐えない内容なのに、「恋愛」と『死」をチャンポンにしただけで、ベストセラーになってしまっている。
 といっても、まったく大人の文学に絶望しているわけではない。吉田修一の「悪人」のような、すばらしい作品も生み出されている。
 わたしは、基本的に、取材した作品と、私小説は大嫌いというスタンスをとってはいるが、「悪人」はすばらしい作品だった。私小説「死の刺」で打ちのめされたときと同じ衝撃があった。
 ただし、「悪人」は「恋愛小説」ではない。映画「髪結いの亭主」が恋愛映画でなかったのと同様、あの作品では「犯人」と「犯人といっしょにいた女」との間には、恋愛が成立していなかった。そこをうまく描いていたのに、そこを読み込めた人が何人いるのだろうか。映画「悪人」では、それを恋愛映画にしてしまった、その手腕には脱帽ものである。おみごと、と声をかけたくなった。
 
 とにかく、いまは、児童文学にとって、試練のときだ。悪貨は良貨を駆逐するではないが、正統的な作品を書きたいという作家は、ますます貧困に喘ぐことだろう。

 女子の支持を集められなかったら、その本は出版されないだろうということなので、うまれて初めて女の子を主人公にしてみた。ギャル語も、ネットで検索して、使用してみた。
 イケメン(語感がきたなくて使いたくないが)なボーイフレンドも登場させようかともおもったが、今回は登場させなかった。が、そのうち、どこかの作品で登場させなくてはならないだろうから、その傾向と対策をいまから、考えておかなくてはならないだろう。
 集英社の「みらい文庫」の公募に出すつもりでいるが、少し眠らせてから、推敲し、送るつもり。とにかく、めったやたらと書いて書いて、書きまくっている。
 もし、落選したら、このブログで少しずつ、公開するつもりでいる。
 ブログ公開の日が来ないことをのぞんでいるが、逆に、出版はあきらめて、はなからブログ公開で、話題になってから、出版化という手もあるだろうが、そのときは、魂を売り渡して、「純愛」と「難病」と、ほんの少しの「事件性」を交えて書かざるを得ないだろう。
 しかし、「純愛」と「難病」は、自分がもっとも苦手にする所だから、やはり、いまのままでいいか。


 
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by spanky2011th | 2011-11-22 20:54 | 文学論のようなもの

近況報告

56歳になって突然襲ったリストラ。中高年の再就職はむずかしいときいていたが、予想以上で、いままでの出版業界からはきっぱりと足を洗い、正社員になることもすっぱり諦め、アルバイトか契約社員になることを目指し、就職活動を行ってきた。
 そして、ようやく見つけたのが、警備の仕事。収入は、三分の一以下になり、どうやって、生計をたてていくか、そればかりが頭から離れない。
 しかし、こんな体験、滅多にできることではないので、しっかりと体験を味わってみようと覚悟を決めている。
 少ない貯金が底をつく日が近づいてきている。警備の仕事をつづける事により、その日を先延ばしにするしかない。就職活動をしながら、芽が出るのを信じて、いくつかのタネをまいてみた。

 ひとつは、以前書いた「ネコ版剣客商売」の児童文学を、ある編集部に持ち込んだことである。みんな、ご存知のように、氷河期といわれている児童文学出版。出版社存続のため、とにかく売れる作品を出そうと、編集者はやっきになっている。作品としてアラがあろうと、文学として下品であろうと、売れる作品がいい作品なのである。
 大手に持ち込んだので、まず、出版されることはまずないだろう。なぜならば、彼ら大手と、中小の出版社とでは、採算ベースがちがっているからである。
 5千部発刊できればペイする中小なら、それは商売になる「よい作品」となるのだが、大手では、そのラインがちがってくる。
 よって、大手は、売れている作家に、売れそうな作品を書いてもらおうとしていて、それとは別に、未来への投資として、若手の掘り出しには力を注ぐが、56歳になった人の作品は出そうとしないからだ。
 商売になるだろうという本を複数出し、その中でいくつかが、ベストセラーになってくれるか、ロングセラーになってくれれば恩の字というスタンスだ。
 しかし、こんな作品を書こうとしている人間がいるというプレゼンくらいにはなっただろう。

 もう一つまいたタネは、小川未明賞に、これまた「ネコ版ファンタジー」を書いて応募してみた。9月10月は、それの執筆に没頭し、そこそこの作品にはなったものと信じている。生死をテーマにしたので、とにかく頭が疲れた。一時虚脱状態になってしまった。
 生死をテーマにしたものというと、「西の魔女が死んだ」という作品があるが、あれは、作者の生死観が、きれいごとすぎるような気がする。死を美化しすぎている。死を美化したあの作品を読んで、子供たちが、短絡的な自殺願望が生まれてきてしまうのではないか、と心配してしまったほどだ。
 現実に生きている辛さのあまり、鎌倉時代、西方浄土の念仏がとてもはやった。現実に希望を見いだせない人々が、あの教えにより、心の慰めを見いだした側面もあったが、しかし、現実世界への挑戦を放棄してしまった。即身成仏という美名で、自殺者が多数でた。
 マルクスの「宗教はアヘンである」という有名な言葉を思い出す。この言葉、宗教の全面否定の言葉と信じている人が多いみたいだが、経済学者の彼に、宗教を云々するつもりはなかったようだ。当時のキリスト教の一側面を批判したに過ぎない。それは、来世(天国)に救済を求めることにより、心の慰めを得ると同時に、現実変革への意志を放棄していることを、アヘンという言葉を使って、批判したに過ぎない。
 癌の末期の人に、痛みを和らげるために、アヘンが用いられる。しかし、それは、生きることを放棄してもらいたいがためではない。癌と戦い、治ってもらいたいから、処方するのである。
 末期で思い出したが、キューブラ・ロスの「死ぬ瞬間」という名作がある。しかし、彼女にも、美を美化しすぎている傾向があるようだ。やはり、色々な臨死体験をした人の話を集めた学者の本を読んでみると、「天国へと道体験」があるのと同じように、「地獄への道体験」もあるようだ。
 どうも、生きてきた時の生き様が、影響しているようだ。ちょうど、年を取り、高年齢になると、常識とか、世間体を気にしていた人の「心のクセ」が、隠しきれずに、露になってくるのと似ているようだ。
 「ネコ版ファンタジー」で、死を美化せずに書けたがどうか、すこし心配な面もある。

 あとは、結果を待つだけだから、11月になってからは、頭を切り替えて、次の作品に取りかかっている。今度のは、売れることを考えて、ライトノベルに挑戦。落語大好きな自分が、落語の知識をフルに使って、まったくバカバカしい、伝奇要素を取り入れた作品にするつもりだ。もちろん、ライトノベルの公募に出すつもり。

  以上、近況報告までに。

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by spanky2011th | 2011-11-16 10:49 | 文学論のようなもの

世界人口70億人突破


 ついに、世界の人口は70億人を超えてしまった。もちろん、これはよろこぶべきことであって、嘆くべきことではないが、しかし、いまの世界の経済体制は、その70億人の人々をみな幸福にするようにはできていない。
 産業革命以前、つまり人口が少なかった時代に発明されたルールを基本として、それをベースに、さまざまな改良(?)点を加えられて、現代に至っているといっていいだろう。
 世界に飛び火した格差反対デモにみられるように、格差があまりにもひどくなりすぎてしまったのだ。
 いまの経済体制も人間が作ったもので、神とかが作ったものでもなく、永遠不滅の正しい体制であるわけでもない。
 これを擁護するのは、甘い蜜を吸っている人たちだけで、その他の人々はうんざりとしているはずだ。ただ、それに変わる経済体制を思い浮かべることができないでいるだけなのだ。
 とくに、資本主義の弱点をきびしく見つめたマルクスが唱えた経済体制が、あのような形で終焉を迎えた姿を目撃してしまった私たちにとって、特にそうだ。
 そこにあったのは、官僚主義の弊害と、特権化した人々の醜いまでの自己中心主義であった。
 ここにメスを入れた形での経済体制を作れないと、世界には希望までもなくなってしまう。

 それにしても、過去の学説をただ研究しているだけの学者先生が多いのか、大きなスケールと卓越した構成力で、新時代の体制を唱えてくれる学者が出てこないのにはあきれ果ててしまう。
 もしかしたら、学者先生方にも官僚主義が蔓延し、新しい説を唱えたときの、他の学者からの総攻撃を畏れ、事なかれ主義がはびこっているのではないだろうか。

 
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by spanky2011th | 2011-11-01 21:51 | 世相 妄想随談

陳述構文について(2)

 陳述構文で大事な働きをしているのは、動詞である。
 動詞によって、他の要素が決められる。「食べる」「いく」「仲良くする」とさまざまな動詞があるが、この動詞次第で、対格などは決められてしまうと言っていいだろう。
 この対格などという表現も、西洋文法の無理矢理の日本語導入のように感じられるが、日本ではそれらを「てにをは」と呼んできた。 
 私は「てにをは」という表現の方が好きだから、以後、「てにをは」と呼ぶことにしよう。

動詞「食べる」だったら、

 昨日、レストランで、ぼくはスプーンでカレーライスを食べた。

という具合になる。対格「カレーライス」と動詞「食べた」はとなり合うのが自然だ。
「スプーンで」のかわりに「友だちと」とか「友だちといっしょに」とか、その文章に必要な情報をくっつけることができるのだ。

 小学校、中学校の作文のとき、しばしば先生に「おい、主語が抜けてるぞ」と叱られたことがあると思うが、日本語では「主語」(実は主題の「は」)は、それほど重要ではない。もちろん、不必要というわけではない。

 昨日、レストランでカレーを食べたときの話だ。
 カレーを食べていると、とつぜん、雷が鳴りだし、停電になって、真っ暗になった。


 という具合に、主題抜きでも十分に日本語としては通じるのだ。
 内田百閒の文章などを見ると、主題が抜けている場合が多い。「私」の場合、ない方が自然なのだ。もちろん、あっても構わないが。

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by spanky2011th | 2011-11-01 21:27 | 日本語  基本の3文型

陳述構文について

 さて、陳述構文についてだが、書かれた文書を手にしてみれば一目瞭然。新聞でも雑誌でも、何でもいい。とにかくほとんどが、この構文である。
 どういうのかというと、「ぼく、それ、たべたい」という幼稚園生児が使う言葉も、「どうか、私を政治家にさせてください。お願いします」という政治家の使う言葉も、この陳述構文である。
「日本語の語順には法則性がない」などとほざく御仁もいるが、ちゃんと基本形があって、TPOによって、語順がさまざまに変化していっているのだ。

 その一番スタンタードな語順は、

時格 + 場所格 + 主格 + 与格 + 対格 + 動詞

といわれている。これは、たくさんの雑誌の文章で統計を取った結果、でてきたものだ(国立国語研究所報告25)。
  覚えたければ覚えてもいいが、無理に覚える必要はない。
 しかし、ほんと、ご苦労様。そんな苦労をしなくても、私たちには過去のすぐれた知的財産が残されているのだ。それは、次の文だ。

坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた。

 主格 + 与格 + 対格 + 動詞だけでなく、副詞まで入っていて、これを基本として、日本語を考えた方が、ずっと、まともな文章が書けるようになれるのだ
 おい、おい。時格 + 場所格 が抜けているではないか、とつっこまれてしまうが、心配は不要。

きのう、お寺で、坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた。

これでカンペキ。
 この基本文を頭に入れておけば、陳述構文は大丈夫なのだ。しかも、5W1Hといわれるが、そのほとんどの要素が含まれてしまっているのだ。

 この基本形があって、あとは、言語主体(つまり話し手)がなにを重要かと考えるかである。その重要な部分が当然前に出てきて、相手に強く印象づけようとする。

 日本の国宝とも呼べるすばらしい坊主の絵を、きのう、お寺で、坊主が屏風にすばやく描いた。

となるのだ。

  完全密室殺人事件が起きた昨夜、坊主である彼は、お寺で、屏風に上手に坊主の絵を描いていた。だから、彼にはアリバイがあるのだ。

 となるのだ。

 統計を取れば、科学的と信じている人々が多いようだが、この言語主体への洞察なくして、日本語を考えるとはまったく、バカバカしい限りだ。

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by spanky2011th | 2011-10-27 17:38 | 日本語  基本の3文型

ふかひれスープの冒険(13 最終回)

   13
 茂津さんが中心になって、船のあちこちをしらべました。
 藤壺さんだけは、料理をつくるため、船室に残っていますが、あとは、みんな、ロープで折れた柱をしばったり、くいちぎられたところに物をつめこんだりと、大いそがしです。
 でも、あちこちが食いちぎられていましたが、沈没する恐れがないことがわかったので、一安心でした。
「そろそろ、かえるとしますか」
 田西さんは、パイプを口にくわえると、火をつけなおして、
「おもかじいっぱい」
と、かじを右にまわしました。
 タタタッ、ガタッ、タタタッ、ガタッ。
 イタチザメが体当たりをくらわせたため、スクリューの軸が少し曲がってしまったみたいです。いつもの心地好い音はしません。
 このスピードだと、港に帰れるのは、真夜中になりそうです。
 太陽が、西にかたむきかけています。
 バタバタバタ。バタバタバタ。
 とおくからヘリコプターのさわがしい音がしました。そして、拡声器で、
「そこの船、とまりなさい」
と、よびかけられました。
「いったい、どういうわけだろう」
と思いながら、田西さんはエンジンをとめました。
 ふかひれをとったことが、法律にふれるのでしょうか。でも、正確には、ふかひれは取ったというよりも、拾い上げたのです。思いあたることがありません。
 コンチキ2号のま上にヘリコプターがやってきました。
 ヘリコプターは海上保安庁のものでした。そして、スルスルとなわばしごがのびてきて、デッキに制服姿の人がおりてきました。
 その人は、なわばしごにぶらさがりながら、なにか、大声でどなっているようですが、ヘリコプターの音にかき消されて、なにをいっているのか、よくわかりません。
 デッキにおりたつと、その人は、
「こらっ、けしからんではないか! 本官だけ、おいていくとは、なんということだ」
と、どなりました。
 幼なじみで、クルージング仲間の桑形さんでした。これで、コンチキ2号の乗りくみ員がぜんいんそろったわけです。
 桑形さんは口ではおこっていますが、コンチキ2号のメンバーに会えて、うれしそうです。
 警察の仕事をおえて、知り合いの海上保安庁の人にたのんで、見回りのヘリコプターに乗せてもらってきたのです。
 ヘリコプターがいってしまうと、
「おい。ところで、そろそろ夕めしの時間だろう。今夜のおかずはなんだ」
と、桑形さんがたずねたので、デッキにいた人たちは口をそろえ、
「ふかひれスープ!」
と、こたえました。
「それはすごい!」
 くいしんぼうの桑形さんがあわてて船室に入っていったので、ほかの人たちも、あわてて、船室にかけこんでいきました。のこらず飲まれてしまってはたいへんだからです。
「おい。こら。まだか」
「藤壺さん。おなかがすいたよー」
「ペコペコで死にそうっスよ」
「胃袋が栄養を補給したがっています」
「てやんでえ、さっさと、くわせろ」
「ワン、ワン」
 みんなは、たいへんな思いをして手にいれたふかひれが、藤壺さんのみごとな料理のうでで、みごとなスープに変身しているものとおもっていました。しぜんに、かおがほころんでしまいます。
 ところが、皮のはがされたふかひれは、船室の小さな流しで、金のボールで水につけてあるだけでした。
「みなさん、どうしたのですか?」
 みんながどやどやとやってきたので、藤壺さんはふりかえって、聞きました。
「こら、夕めしはまだできないのか」
 桑形さんが、おこった口調でいいました。
 すると、藤壺さんはおどろいたような声で、
「だって、きょうは、夕飯はみんな、家でたべることになっているのではないですか。わたしも、床伏さんちのスープを食べるつもりでいるのですよ」
と、答えたものだから、たいへんです。
「なにいってんだ。港には、とうぶん着かないぞ」
「はらぺこなんだ。なんか、くわせろよ」
 みんながいっせいにしゃべりだしたから、なにをいっているのかわからなくなって、藤壺さんは耳をふさいで、すわりこんでしまいました。
「みんな、だまれ!」
 茂津さんがとってもでっかい声でどなったので、みんな、シーンとしました。
「ふかひれスープはまだできないっスか」
 茂津さんが、みんなを代表してたずねました。
「ええ。いま、つくっているところですが、まだ、とうぶんはできないですね」
「おい、とうぶんって、どのくらいだ。三分後か、それとも十分後か」
 こんどは、桑形さんがききました。
「そうですねー、いま、ふかひれの血ぬきをしているところで、それがすんだら、太陽の日にたっぷりあてなくてはいけませんから、そうですね、早くて、あと、三、四か月くらいですかね」
 藤壺さんの返事をきいたみんなの顔から、ほほえみが消えました。
「うへっ。そんなの、ちっとも早くないじゃんか」
 安光さんは、藤壺さんの気の長さにあきれていいました。
「そうだっ! 非常食があったろ」
 桑形さんがどなりました。
「それがないのです……」
 矢古さんが申しわけなさそうに、答えました。
「なにっ! おれはゆうめしに間に合うように、すっとんできたんだぞ。どうしてくれるんだ」
 桑形さんがプリプリおこっています。
「ということは、この船にはふかひれがあるだけなのか!」
 みんなに取り囲まれた藤壺さんは、
「だめです。できるまで、待ってください」
と、小さな流しの前に立ちました。ふかひれを守ろうというのです。
「そんなに待てないよー。はらぺこで、死にそうだ」
と、いったのはひろしです。
「ふかひれには、毒はないから、さしみにして食べたらどうですか」
 矢古さんも、すぐたべるのに賛成です。
 みんなが藤壺さんににじりよったので、
「だめです。そんなの、いけません」
 藤壺さんは、流しのふかひれの上に、身をのせました。
「ええい。やっちゃえ」
 ふかひれを守ろうとしている藤壺さんに、みんなはいっせいにとびかかりました。
「だめです。まだ、たべられません」
「うるさい。よこせ」
「ワン、ワワン」
「はらぺこで、いらいらしてるっスよ」
「てやんでえ、どきやがれ」
「パパの分も、とっといてよ」
 サメよりも、コンチキ2号の乗り組み員の方が、きょうぼうかも知れません。
                                             (おわり)



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by spanky2011th | 2011-10-23 12:25 | 長編童話 ふかひれスープの冒険

地産地消で食料を守れ

 大きな池がありました。池に住む生き物達は、自分の思い通りに、生活していいことになっていました。自由主義です。
 何百年、何千年、いや何万年の時間の中で、自然とバランスのとれた生態系が出来上がっていて、どの生物も、共存共栄をしていました。
 ところが、そこへ、雑食系の外来種の魚がやってきました。マネー資本主義です。
「ここでは、自由にしていいのだよな」
 はじめは、池の小魚達を食べていました。それを食い尽くすと、えびがにやゲンゴロウのようなものまで食べるようになりました。
 外来種はどんどん増え続けました。食べるものがどんどん減っていきました。
 こうなると、自分たちが生き残るためと言って、共食いを始めました。(企業買収などです。株を買いあさり、その資産を手に入れる)
 さて、こんなことをつづけていて、いったい、この先はどうなるのでしょうか。

 ウォール街からはじまった反格差社会デモは、世界のあちこちに飛び火しています。
 かつて、村上ファンドというのがあって、その中心者が「金儲けして、どこが悪いのですか」とのたまいました。
 一時「ウイン・ウイン」の関係という言葉が流行りました。しかし、その実態は「金儲けして、どこが悪いのですか」でした。
 いま、食料が投機の対象として、注目を集めています。このままだと、貧乏人には、「食料は行き届かなくなる」という時代が来るでしょう。
 一キロの肉を作るために、6キロの穀物が必要とされる、とむかし読んだ記憶があります。人口が120億人に達したとき、お金持ちはお肉を食べ、貧乏人は穀物も食べられないで、雑草を食べるしか手がなくなるのでしょうか。
 海にいって、魚を捕るというのは、漁業権の問題もあり、庶民にはできなくなってしまうのかもしれません。

 食料は、それこそ、民衆の命の綱です。これを真剣に、金儲け主義の人たちから、守らなくてはなりません。
 工業製品を世界に輸出し、そのお金で食料などを買えばいいじゃないか、で戦後の日本はやってきましたが、かつての食料の輸出大国だった国は、輸出できなくなってきています。自国の人々のお腹を満たすのに、せいいっぱいになってきたからです。
 
 震災後、地産地消ということばを耳にするようになりました。
 豊作貧乏という言葉に象徴される農業の問題点を解決し、手遅れにならないうちに、1億2千万の人々が、狭い国土で、それなりの生活がてきる経済体制を作ることが、いまの日本の喫緊の課題ではないでしょうか。
 そのノウ・ハウは、世界へ輸出できるはずです。
 
 ということで、こんな素朴な人たちがいたころがうらやましい。
「りんご追分』は、二十世紀の日本の名曲だと思います。ジャズメンもレパートリーにしている人が多いのもうなずけます。

 
 
  
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by spanky2011th | 2011-10-18 19:18 | 世相 妄想随談(音楽付き)

ふかひれスープの冒険(12)

         12
 ホホジロザメは、たたみ4枚分のも、6枚分のも、ふたたび、浮かんでくることはありませんでした。
 きっと、どちらかが、どちらかを殺し、そして、満腹になるまで食べてしまったのでしょう。たたみ6枚分が、勝ったにちがいありませんが、たしかなことはわかりません。
「どうです。船長。作戦どおり、わたしたちは、助かったみたいですよ」
 矢古さんが得意そうにいいました。
「矢古さんのおかげです……」
 そうじゅう席にもたれかかっている田西さんは、もっと、なにかいおうとしましたが、なにをいったらいいのかわからなかったので、だまってしまいました。
 だまってしまうと、疲れが、またおそってきました。ひろしを守るために死に物狂いになって戦っていた自分がウソのように思えました。どこに、あんな力があったのでしょう。どこに、あんな勇気があったのでしょう。
 そして、なぜか、サメのことばかりが、頭に浮かんでくるのでした。
 人間が生まれるずっとむかしから、食うか食われるかのおきての中で生きぬいてきたサメたち。たしかに、サメの中には、人をおそうものもいますが、それは、あくまでも自然のおきてにしたがっているだけです。悪意があるわけでもないし、殺しを楽しんでいるわけでもありません。
 生きていくために、子孫を残すために、命をかけて食べるのです。

 あんなにこわい思いをしたのに、なぜか、田西さんは、サメをうらむ気にはなりませんでした。それどころか、生きていくために、子孫を残すために、死にものぐるいになって食べるサメが、とても、すばらしい生き物のように思えました。
 神さまとか、仏さまとかは信じていない田西さんですが、「生きていこう」というすさまじいまでのサメの生命力に、ふしぎな感動をおぼえていました。
 それに、戦いやぶれて死んでいったサメだって、生きて、生きて、生き抜いていこうとして、死に物狂いになって戦い、そして、死んでいったのです。
「死んでいったサメのため、祈りをささげませんか」
 田西さんはそうつぶやくと、疲れたからだにムチうって、立ち上がりました。そして、白いぼうしをとると、胸に手をあて、目をつむりました。
 田西さんの思いは、ほかの人にも伝わったのでしょう。矢古さん、
藤壺さん、安光さん、ひろしも、同じように、胸に手をあて、目をつむりました。
 犬のボランも、まねて、胸に前足を当てようとしましたが、どうしても、「お手」のポーズにしかなりません。でも、気持ちは、あらわれていました。
「それにしても、大きなサメでしたね」
 矢古さんが、となりの安光さんに話しかけました。
「最初のは七メートルくらいでしたが、つぎにきたのは、十メートル以上はありましたね。いままでにつかまったホホジロザメで一番大きかったのは、全長6・4メートルのやつで、ちょっと疑わしいのでアゾレス諸島でつかまった9メートルというのがあります。ですから、どちらかでもつかまえておけば、世界記録はまちがいなしでしたね」
 観察が大好きな矢古さんだけあって、見ただけで、2匹のサメの大きさを、ほぼ正確につかんでいました。
 ところが、安光さんは、つりざおをふりまわし、こうふんぎみに、
「なにいってんでえ。最初のは十メートルはあったし、次のは二十メートルはあったぞ」
と、いいだしました。
 にがしたさかなは大きいといっても、安光さんがいうのは大きすぎます。
「そんなにはありませんでしたよ」
「てやんでえ、ぜったいにあった。魚のことに関しては、この安光さまが一番くわしいんだぞ」
 ふたりのはげしいいいあいがはじまりました。
 すると、とつぜん、
「あっ、ふかひれだっ!」
 藤壺さんが、しずかになった海をゆびさしました。でっかいふかひれが、波のまにまにただよっていたのです。
「よしきた。まかせなさい」
 手ばやく投げざおを用意すると、安光さんはヤッとかけ声とともに、ふかひれめがけて、おもりをなげました。
「ナイス・ショット!」
 安光さんの投げたおもりがふかひれにあたり、はりがひっかかりました。
「うわーい。ふかひれスープがこれでつくれるぞ」
 藤壺さんがうれしそうに、ピョンピョンとびはねました。
「藤壺さん、とびはねるの、やめてください」 
あわてて、やせっぽちの矢古さんが、せい高のっぽの藤壺さんを、おさえつけました。
「その音をきいて、えものだと思ってサメがやってくるのです。藤壺さんの足で船をたたく音をきいて、はじめのサメはやってきたのだし、つぎのサメも……」
 長々と矢古さんの解説がはじめようとしたので、
「さあて、ふかひれスープをつくろうっと」
と、藤壺さんは、つりあげたふかひれをひっつかむと、にげるように船室にいってしまいました。
「ダメですよ、藤壺さん。きちょうな証拠ですから、スープなんかに、しないでください。そのふかひれから、あのサメの大きさを計算しますから、待ってください」
 矢古さんは、藤壺さんを追いかけて、船室に行ってしまいました。

 ふたりのようすをニコニコほほえみながら見ていた田西さんは、
「安光さん、すみませんが、茂津さんを起こしてきてください。あちこち、食いあらされてしまっているので、大急ぎで、なおしてもらわなくてはなりませんから」
と、たのみました。
「がってんだ」

                  (つづく)

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by spanky2011th | 2011-10-18 18:31 | 長編童話 ふかひれスープの冒険

ガンジーの「人類の7つの罪」 「労働なき富」

ガンジーの「人類の7つの罪」について

 トルストイの童話に「人間にはどれだけの土地がいるか」というのがある。出発点からまるまる一日歩いて、また出発点に戻ってくる。それで囲えた土地が自分のものにできるというので、主人公は必死になって歩き、出発点に戻ったときに死んでしまうというものだ。結局、主人公に必要だったのは、自分のなきがらを埋める土地だけだった、という皮肉な結末だ。
 どこかの進学塾のコピーではないが、「夢は大きく、目標は高く」も結構だが、それが単に、どこまでも肥大化する、利己的な人間の欲望の肯定になってしまうところに、現代の問題点がある。何のために、「夢は大きく」持つのか。何のために「目標は高く」持つのか。
 単に、自分の物欲・名誉欲・権力欲などを満たすだけのものなのか。それとも、利他的なものなのか。ここに、大きな分岐点がある。

 ガンジーの「人類の7つの罪」では「労働なき富」を悪としている。

 以前も触れたことがあるが、庶民感覚では「おい、貰い過ぎだろう」というカルロス・ゴーン氏も、コストカッターとしての手腕を発揮しないと、いつでも株主に首をきられてしまう存在なのである。非情に徹して多額のマネーを手にするか、情けをかけて株主に首を切られるか。この選択をいつもせまられているのだ。他の人たちも同様だ。
 
 復興増税がいよいよ実施されるが、「労働なき富」でノウノウと生きている人々のふところはあまり痛まないようにできている。
 政治家が株などで儲けているのはみな知っていること。既得権益の所有者たちが寄り合って、日本を動かしているからだ。

 これは感覚的な問題だが、日本が変になりだしたのは「馘首」を「リストラ」、「売春」を「援助交際」などと、言葉をすり換えることによって、その実態を見まいとした90年代頃からのような気がする。 

 今、日本には、「働けど働けど猶わが暮らし楽にならざり」を実感している人で満ちあふれている。ワーキングプア、若者の就職難、老人の万引き……。貧困がじわじわと下から上へと広がっている感じだ。

 ワーキングプア……言葉を換えれば、「正当な労働により得られるはずの富」が、どこかで、誰かによって搾取されていると言ったらいいだろう。小泉政権が行った構造改革が、じわじわと庶民をいたぶっている。

 若者の就職難……真面目に学んで、社会に出て行こうというのに、そのチャンスまでもが、どこかで、誰かに潰されている。

 老人の万引き……家族が、もしくは社会がめんどうを見るべき老人達が捨てられている。核家族時代は終焉を迎え、無縁社会へと移行している。

 不気味な時代だ。こんな時代世相なのに、革命だ、と叫ぶ人が出てこないのが不思議なくらいだ。これが欧米なら、何万、何十万という人々がデモをおこなっていることだろう。暴動が起きていることだろう。

 「民主主義」のはずなのに、いまや、「金主主義」の時代ではないか。それも、たくさんの金をもっている人が「主人」になり、そうでない人たちは、彼らのための働き蟻状態だ。
 目に見えないカースト制度が日本を覆っている。

 働き蟻よ、革命を起こそうじゃないか。

 まずは、経済の仕組みを変えること。遠くのどこかの人々から搾取する資本主義でもなく、隣の人を抑圧する共産主義でもない、第三の経済の仕組みを生み出すこと。これが急務だろう。
 日本の学者の中にも、気骨のある人がいるはずだ。より多くの人が安心して暮らせる経済の仕組みを、真剣に生み出してもらいたい。
 昔読んだ本だが、地球の食料で考えると、120億人くらいの人口を支えるのがいっぱいいっぱい、とあった。
 つい先だって、70億人を突破した。時間は残されていないのだ。70億人の人々が幸せに人生を全うできる経済システムを考案してほしい。
 
 既得権益をもっている人人が、その「経済システム」を潰しにかかるだろう。

 それに対抗する革命勢力は、暴力革命ではなく、非暴力でなくてはならない。非暴力の最大の武器は、「いま、なにがおこなわれているか、それを正しくみんなに知らしめること」、これしかない。

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by spanky2011th | 2011-10-04 20:31 | 世相 妄想随談