タグ:教育 ( 4 ) タグの人気記事

砂時計の落ちた子供たち

 教育格差の問題が数日前の新聞に載っていた。
 ちょうど、いま、書き出している次の作品が、その問題をちょっとデフォルメして、都市伝説なども交えて、現代の病理を描けないかな、と思っていた所なので、その記事を興味深く読んだ。

 教育格差と収入格差の相関関係は、以前より指摘されていたことで、内容的には大したことはないが、数値として出されると「やはりそうか」となる。しかし、あの数値にはゴマカシがある。

 たとえば、高校しか卒業していない両親がいたとする。その両親は低所得だとする。しかし、その両親は、苦労しているので、日常的に様々な本を読んで、たえず学習していたとする。
 そんな家庭で育った子は、学習するのが当然であり、学ぶことの楽しさ、素晴らしさを知っている。当然、大学へ当人も進みたいと思い、両親も進めたいと思っていた。しかし、経済的に……と二の足を踏む。
 奨学制度があると言うが、いまの奨学制度は利息付の奨学制度であり、大学へ進むことによって、社会人になったとたん、多額の借金を背負い込むような制度なのである。「大学は出たけれど」といわれる就職超氷河期のいま、そんな借金を好き好んで背負いたいバカはいない。背負わせたいバカな親はいない。
 大学に合格するだけの学力があるのに、大学進学を諦めている子供が多すぎるのではないのか。

 とくに問題は、大学である。
 たとえば、大学に合格できる学力があっても、大学に支払う経済力のないと、大学生になれないことである。  
 また、大学生になれたとしても、四年間の学費を支払う能力がなければ、大学卒業という「領収書」をもらえないことである。
 そして、この「領収書」が、なぜか、社会では大きな目安になっている。
 理科系はともかくとして、文系の学生は、あまり勉強しないでも卒業できてしまう。 

 本当の意味での学力格差は、本人のやる気と努力で、参考書を買いさえすれば、いくらでも克服できる。

 あんな数値の出し方ではなく、その家庭の両親が日常的に読書をしているのか。学習しているのか。どんな本を、どんなことを学んでいるのか、のデータまでとらなければ意味がないだろう。

 自分の高校二年生の娘のことで恐縮だが、塾に通わせる経済力がないので、中学三年生の一時、塾に通わせただけで、それ意外は独力で勉強してきてもらってきた。その理由も、受験の情報が入ってこないからだった。それでも、勉強好きな娘は、有名な進学校にすすみ、周りの高校生が塾に通っているのに、いまも独力で勉強している。
 欲しい本はアマゾンやヤフオクで購入している。見ていて、涙が出るほど、けなげだ。
 大学へ進み、数学の美しさをきわめてみたい、などといわれると、つらくてならない。
 
 親がともに好奇心旺盛で、関心のあることは図書館で本を借りてきて調べたりしている。暇さえあれば、本を読んでいる両親を見ているので、本を読むのが子供の頃より当たり前になっている。
 そんな親をもっているので、読書や学ぶことは当然だと思ってくれているのだろう。
 
 低所得者の子が、低学力なんて、ウソッぱちだ。
 高所得者の子が高学力なのは、塾や家庭教師をつけているからだ。そして、その子の学力にあった大学に入り、高い大学の学費を払う。同じ学力があっても、低所得者の子はその大学をあきらめる。
 ただ、それだけ。それを延々と繰り返してきただけだ。

 10年、50年単位で長いスパーンで考えれば、日本は、なんと巨大な損失を出しているのだろうか。
 たとえば、最高学府を卒業した低所得者の子と、高所得者の子がいたとすれば、ハングリー精神から言っても、どちらが有益な人材かは一目瞭然ではないか。
 国難とも言われる危機を乗り切れる知恵ある方法を思いつくのは、どちらの子なのだろうか。
 昭和の一時、一億総中流時代の一時、低所得者の子も、大学へ進めた。その人たちが、いまの社会の中枢にいて、「自分たちの時代はこうだった。いまの子はそれと比べると……」とのたまわっているが、いまの子たちの方がずっとシビアな時代になっている。
 一億総中流時代は終わり、砂時計時代になった。中流の砂はみな下へ落ち、上流もきっかけがあれば下へ落ちていく。
 その中の学ぶ意志のある子に、どうか、チャンスをあたえてもらいたい。その子たちが、いずれは日本を救うことになるはずだ。

 だが、日本は、そういう子たちを長期にわたり見捨てつづけてきて、これからも見捨てていくのだろう。

 


人気ブログランキングへ


 
[PR]

by spanky2011th | 2012-01-07 01:52 | 世相 妄想随談

「教育権の独立」が脱原発の近道

 サッカーの基本は、相手が嫌がることをやれ、である。権力者たちがもっとも嫌うもの、それが教育権の独立である。

 いまの日本(政治などのことです)は変な姿になってきた。というより、もともとそうだったものが、顕在化してきただけなのだ。
 
[ 原発事故に直撃された福島県で今月、脱原発団体が批判する学者や機関と県内の大学との連携の動きが相次いだ。福島大学は独立行政法人・日本原子力研究開発機構(原子力機構)と連携協定を締結。福島県立医大では「年間一〇〇ミリシーベルトの被ばくまで安全」と講演した山下俊一・長崎大教授が副学長に就任した。地元では「大学の権威で、被害の訴えが封じられるのでは」と、懸念する声も漏れている。] 東京新聞(7月28日朝【特報】)

 何度も主張しているが、「教育権の独立」こそが日本の未来を切り開いていく近道である。

 日本には、独裁者もいなければ、カリスマもいない。ただ、利権の旨味をすっている複数の有形無形の組織と人々がいて、それらが複合体をなして、自分たちの都合がいいように、都合がいいようにと、物事を運ぼうとするのだ。
 その典型が、東京新聞で報道されている根回しなのである。
 大学はいま経営危機である。どこも資金繰りに苦しんでいる。たぶん、「連携協定を締結」はそこを突いてきたものだろう。
 京都大学の反原発の研究者たちが冷や飯を食わされていたのも、同じ理由からだろう。
 とにかく、裏からこっそりと「学問の世界」に近づき、自分たちに都合のいい学説を唱えてくれる学者を、組織の中心に据える。
 九電のメール問題も、根っこは同じである。裏からこっそりと仕込む根回しは、気づきにくい。

 全体観と部分観で、物事はみなくてはいけない、といわれている。いまの日本の政財界を見ていると、目先の利益のみに眼がいき、全体観がなくなっている。
 外国から日本が、「衝突回避機能付き行き先不明漂流物である」と揶揄されるのも当然だ。
 利害の対立が起きて衝突しそうになると回避し、まだ、じわじわとまた同じことをやりだす。根本的解決の筋道を模索しようとしない。中国・韓国・ロシアとの国境問題も、「日本の固有の領土」と主張しておきながら、衝突しそうになると回避してしまう。根本的解決を模索しない。

「利権の旨味をすっている複数の有形無形の組織と人々」にとって、理想の人材とはどういうものか。人文科学系、とくに、いま流行の「正義とは何か」というような問題には関心がなく、それでいて、専門分野ではとびきりに優秀な人物だ、といえるだろう。
 いまの大学を見ていると、こういう学生を育てる下請け機関になりさがっているのではないか、と思うところもある。
 「正義とは何か」という倫理に目覚め、専門分野でもとびきりに優秀な人物が、一市民の立場で、政治や経済にも監視の眼を光らしだしたとき、日本は変わりだす。
 「正義とは何か」という倫理に目覚め、専門分野でもとびきりに優秀な人物が、と書いたが、これはたとえだ。去年の暮れ、日本に感動の渦を巻き起こした、たくさんの「タイガーマスク=伊達直人」たちが、一市民の立場で、政治や経済にも監視の眼を光らしだしたときにも、日本は変わりだす。

 復興税の問題が出てくると、必ず、「税の公平な負担」というステレオタイプな言葉がでてくる。しかし、彼らが絶対に口にしない言葉がある。全体観で見れば、あまりにも当たり前すぎることである。
 
「その前に、富の公平な分配がおこなわれているのか」


 最低賃金問題が云々されていたが、これを引き上げられたら、倒産してしまう中小企業がワンサカとある。とにかく、弱肉強食で、弱い立場のものが泣きを見る市場原理のみでいいのだろうか。ここでも、「その前に、富の公平な分配がおこなわれているのか」が問題になる。
 
 震災当日、東電会長は中国にいた。そのとき、マスコミOBもいっしょだったと報道されていたが、このマスコミOBたちは、現役時代、どんな記事を書いていたのだろうか。 
 だれか、調べて教えてくれないものだろうか。



人気ブログランキングへ
[PR]

by spanky2011th | 2011-07-29 19:29 | 世相 妄想随談

「は」と「が」について(15)

日本語はいくつもの言語が混在している 

30年近く前に読んだ辻邦生の随筆に、ドン・キホーテと農民のやりとりに触れたものがあった。
 うろ覚えだが、その内容は、道ばたにいた農民にドン・キホーテが「この道をだれか通らなかったか」と質問すると、農民は「羊が一匹通って、また、しばらくして、羊が一匹と通って」と時系列に沿って喋り、それにイラついたドンキホーテが「羊が百匹通った」と言えばすむではないか、といってしまう。すると、農民は「私たちのムラでは、みんな、こうしゃべるのだ」と、反論したというのだ。
 辻は、このエピソードから、近代化以前の人は下部概念で考え、近代化以降の人は上部概念で考えている、というのだ。そして、物語(つまり小説)は、農民の考え方に近いという内容だった。
 元来頭の悪い私は、上部概念・下部概念というのをけっこう長い間考え続けていた。下部概念といっても、「羊」という言葉そのものがすでに抽象化の産物で、上部概念ではないのか、と思ってしまったのだ。羊といっても、同じ羊は二つとしてなく、みな、てんでバラバラ。それを無理矢理捨象して、羊という概念でくくっている。私にはそうとしか、思えなかったのだ。
 そんなことを考えているうちに、私の頭に「自分たちは、二つの言語をうまく使い分けて生きているのではないか」という発想が生まれた。
 現人類ホモ・サピエンス(クロマニヨン人)以前のネアンデルタール人も言語を持っていた。しかし、彼らは言語能力(思考能力)が劣っていたために滅んでしまったのだろう、といわれている。脳の骨格もかなり違うらしい。
 この後から発達した部分が、日本語でいうところの主題の「は」ではないのか、と私は思っている。頭の中のこと、まして有史以前のことだから、立証のしようがない。
 太古の日本人が使っていた言語は、現実を認識する言語。そして、相手に自分の考えを伝達する言語。ともに、現実に根を下ろした「現実認識伝達言語」であったろう。
 そのころは、主語の「が」は使われていなくて、「羊通った」というような、「が」なしであったと思える。
 たまに読む古典を見ても、主題の「は」は見かけるが、主語の「が」は使われていない。しかし「が」が現れていなくても、ゼロ記号として「主語」は存在していた。というより、この主語の方が歴史は当然長くて古いと考えた方が自然だ。
 多分、有史以前に、主題「は」と、主語「が」の混在するいまの日本語のスタイルはできあがっていたのだろう。
 この後から獲得した部分「内界夢想思索言語」は年を重ねるに従い進化し、変化し、複雑化していった。
 一部でいわれている「日本語には主語がなくて、主題がある」という主張は、圧倒的に発達した「内界夢想思索言語」を、分析の俎上にのせたからであろう。
 やはり、この説はいきすぎだろう。主語ありの「現実認識伝達言語」が日本語のベースにあって、その上に、主題による「内界夢想思索言語」が構築されていると考えるのが自然だろう。

 文法をやっている人に共通しているのが、わたしのような発想から考えるのではなく、ただ言葉を集めてきて、ひたすらその違いを分析しているのみ、と私には思えてしまう。いつか、この重箱の隅をつっつく作業をし続ければ、いつか帰納法的に正解にたどリつけると信じているみたいに。
 ベルグソンの「直感」と「分析」の考察は、文法の研究にも有効だと信じている。「直感」を証明するために、厳密な分析による検証が必要だ。つまり、厳密な分析に耐えられない直感はまちがっていると断定していいだろう。
 しかし、いくら分析し続けても、それだけでは意味をなさない。富士山の石をただひたすら近視眼的に分析しても、私たちが直感的に知っている富士山にはならないのだ。たとえ、その分析結果の積み重ねが富士山よりも高く積み上げてみても、私たちの直感には及ばない。

 この直感との関連だが、最近の脳科学では、私たちの認識は、ある意味アバウトなパターン認識であるとされているらしい(この分野も勉強不足で、耳学問くらいの知識がないが)。けして帰納法的ではなく、アバウトにその特徴を捉え、その特徴から同類と分類しているというのだ。
 この世には、まったく同じ羊はいない。太郎が飼っている羊10匹もそれぞれがまったく別の個体で、次郎が飼っている羊20匹も同じだ。もし、私が太郎と次郎からすべての羊を買ったら、私は羊30匹を所有することになる。それぞれの個体の差異は切り捨てて、パターン認識でそれぞれ同じ羊と分類し、 「羊30匹を所有している」となるのだ。
 「羊30匹を所有している」と考え、なんの違和感もないのは、私たちの脳がアバウトなパターン認識をしている、なによりの証拠なのだ。
 太郎の飼っているAという羊が何月何日に生んだ子羊の三番目と、次郎の飼っているBという羊が何月何日に生んだ子羊の二番目とはまったく別なのだから、現実には1+1=2にはならない。
 実際そうなのだ。交通事故で今日、152人の人がなくなったとする。一つ一つに、まったく別の悲劇が隠されていて、単純に数値化できるものではないのだ。
 しかし、私たちはなんの疑問も持たず、152人を受け入れてしまう。
 この抽象化し、数値化し、論理を追っていく 「内界思索言語」は、論文などになっていたのだろう。この時に使われているのは大脳の言語脳であろう。
 逆に、「内界夢想言語」は、有史以前は「神話」を生み出し、現在は無数の「小説」を生み出している。こちらは大脳の非言語脳(音楽脳・ビジュアル脳)をその場としているのであろう。
 しかし、実際は脳梁が右脳・左脳をつないで、瞬間瞬間、ダイナミックな情報交換がされているので、単純に図式化できないが。

 この日本には、無数の文章読本がある。
 有名どころの谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、丸谷才一、井上ひさしなど小説家系は「内界夢想言語」としての文章読本といえるだろう。
 文章の専門家=小説家という考えに「待った」をかけたのは、学者の清水幾太郎で、学生が全うな文章を書けないと「論文の書き方」を著したのだ。以降、さまざまな学者や先生方が「論文(またはレポート)の書き方」という本を出している。
 ある意味、当たり前なのだ。小中高の国語の先生方が教える国語というのは「小説」を中心にした「内界夢想言語」なのだから。
 それもまた当たり前なのだ。語弊はあるが、小中高の国語の先生方のかなりの比率で、将来、小説家や詩人などを目指して大学の国文科に入学し、小説家や詩人では飯が食えないのではないかと、将来への保険として教職課程をとり、小説家や詩人への夢を諦めた人たちがなっているからだ。国語の教師になるぞ、と真面目に国語に取り組み、 「内界思索言語」もしっかりと身につけている人が少ないからだ。
 いっそのこと、論説文の書き方は英数理社の先生方が教えた方がいいのではないか、とおもうレベルなのである。
 小説家系文章読本と学者系文章読本とは別に、もう一つの文章読本がある。新聞記者系による文章読本だ。これは「脳梁系」とでも呼べるハイブリット系で、これを読んだからと言って、小説家になれるわけでもなく、論文がうまくなるわけでもない。しかし、実に実用性のある文章読本だ。まず、読むとすれば、この系統が一番役に立つ。

 私も、「内界思索言語」は苦手にしている。
 社会に出て、ビジネス文の書き方で苦労した記憶がある。
 私がお世話になったある作家は、「筆が荒れる」と称して、作品以外の雑文はできるだけ書かないようにしていた。努力して築き上げた「内界夢想言語」が崩されるのが嫌だったからだろう。



人気ブログランキングへ
[PR]

by spanky2011th | 2011-07-24 12:18 | 日本語 助詞「は」と「が」

「目的性訓練」の持続が天才を作り出す

 マシュー・サイド著「非才! あなたの子どもを勝者にする成功の科学」という本を、少し前に読んだ。
 卓球選手として英国オリンピック代表になり、その後、ジャーナリストに転身した人物が書いた本で、とても刺激的で面白い本であった。
 要は、「目的性訓練」の持続が天才を作り出すのであって、才能ではないという主張には心底共感した。
 モーツァルトを例にとるならば、彼は天才ではなく、どちらかというと大器晩成型だったと言う話などは、とても興味深く、目から鱗が落ちる気分になった。
 具体的に述べると、音楽教育者の父親の手ほどきを受けたモーツァルトは、3500時間の目的性訓練を受けた頃(1日2時間の練習として5年後当たり)から頭角を現し、10000時間を超えた頃から、真の才能を発揮しだした、というのだ。
 石川遼選手にしても、イチローにしても、みな、目的性訓練を自らに課している。
 逆に、「君は才能がある」と言われてきた人物たちが自分の才能神話を崩さないために、ウソをついたり、誤摩化したりしていく例も紹介されている。
 いま、私は、段階的に発展する、この目的性訓練に主眼を置いた「国語教育」の方法はないか、と思索している。多分、ドリル形式が一番いいのだろう、と思うのだが、それを小学校低学年のときに受けさせる。そうすれば、日本の子どもたちの国語力は大幅に向上するのではないかと思っている。
 その内容は、ここでは触れない。

 娘をヤマハピアノ教室に通わせたときのことだ。その音感教育のメソッドを目の当たりにして、「なるほどこういうことをするから、ヤマハ育ちはちがうのだ」と思ったものだ。絶対音感を身につけさせる教育を、幼児の頃にほどこし、それを育て、選抜し、さらに育てては選抜していく。
 我が家の判断で、娘は小学校進学と同時に、ヤマハは辞めさせて、個人レッスンに切り替えた。先生や教室の雰囲気などもあって一概には言えないが、「ヤマハに通っていると、いずれピアノぎらいになって辞めていく」というウワサも耳にしていたからだ。

 しかし、そのとき、私は、ヤマハのような方法論が日本の国語教育、作文教育にはない、と悲しくなっものだ。十年以上前の話だが。
 作文では、相も変わらず「感じたまま、思ったまま、書きなさい」方式で教え、明治時代に作られた学校文法を後生大事に絶対視し、読解では先生の印象批評としかいえないような解釈がまかり通っている。句読点の読点一つとっても、呼吸で打ちなさい、というような教え方をしていて、読点の法則性には触れようとしない。
 とくに、いま学校が教えている文法(古文を除く)は、大学受験にもでることがない。多分、大学側が、時代遅れの過去の遺物にすぎないことを十分に認識しているからだろう。なにせ、西洋には文法なるものがあって、じゃあ、日本にも文法がなければ恥ずかしい、とばかりに明治時代に急造したのが学校文法な訳だからだ。
 しかし、勘違いしないでほしい。文法の学習など必要ない、といいたいのではない。いな、国際交流が当たり前になったいまほど、学生も教師も、そして、留学生も、みんなが真に納得できる文法が必要とされている時はないのではないだろうか。
 三大文法、四代文法といわれるように、いくつもの説があるのは耳学問で知っているが、それでも、学校文法よりはましだろう。その中で、特に、国語学の研究者の中で、もっとも支持されている文法を採用するだけでも、かなりの変化があるはずだ。
 そんなわけで、日本語をいま、再度勉強し直している。勉強し直してみると、日本語ほど面白いものはないような気がしてくる。不思議だ。

[PR]

by spanky2011th | 2011-06-26 21:14 | 世相 妄想随談