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電気使用量枠組みを

 数週間前の新聞記事だが、海底深くに眠るメタンハイドレードに、日本は、いよいよ手を付ける気でいるらしい。
 仕方がないとは思うが、使えるモノは何でも使う姿勢でいると、未来の子供たちに、大切な資源を残してあげれなくなる。
 原子力も不安、石油も不安、しかたがないので、メタンハイドレードを掘り出して、火力発電にバンバン使用するつもりなら、ちょっと待ったといいたい。
 少なくても、燃料電池の技術が確立するまでは、メタンハイドレードは使わないでいてもらいたい。
 それよりも大切なことは、低エネルギー社会へ、低炭素社会へ、ゆっくりと舵を切ることではないのか。

その一つとして、こんなアイデアがふっと浮かんだので、ここで紹介する。
 話だけでしか知らないが、食糧難の戦後、食料配給券なるものが存在した(らしい)。
  それを見習って、いっそのこと、電力は、配給制にしてしまったらどうだろうか。一人当たりの使用量枠組みを設け、その範囲内で収めた場合には、一定の割引 率にし、それを超える場合には、余った人からその権利を買い取る。買い取れなかった場合には、枠を超えて使用した部分に対しては上乗せ価格にする。
 このような制度を導入することにより、電気の無駄遣いガ減るのではないか。そして、低エネルギー社会への技術開発が進んでいくような気がする。
 へんな言い方だが、ホームレスのような人々にもこの電気使用量枠組みを与え、その権利を売ることにより、収入が得られる。
 もし、ドラマ「北の国から」でやってたような風力発電で、自分の家の電力をすべてまかなえことができれば、その権利がそっくりその家の収入になる。
 電力会社の宣伝に踊らされた人には悪いが、オール電化の家に住む人には、それなりの経済力があるのだろうから、それなりの負担をしてもらう。これは、当然なことだと思う。

 もちろん、これには、一般家庭と、企業などの経済活動と、別に考えなくてはならないだろう。また、きめ細やかな例外規定を作らなくてはならないだろうが、このような、制度の導入を考えることが大切だろう。

 そんなバカなと思う人もいるだろうが、このやり方は、国際間では、「温室効果ガス」の排出取引として実際に行われている。
 文学部国文科出身の自分には、これ以上のことは書けないが、経済学を学んだ人なら、もっとすばらしいアイデアを知っているはず。そのアイデアを自分は知りたい。
 限られた電気を効率的に使うようになる契機になる、制度の導入が一番大切なような気がする。

 単に原発反対(もちろん私も反対だが……)と叫んでいるだけではなく、どうしたら、原発に依存しないでいけるか、そのための衆知を結集すること。これなら、自分たちにもできそうで、ゆっくりと舵を切ることができる方法を考えること。これが大切だと思う。
 
 これとは話が別だが、今日(2/9)の東京新聞に面白い記事が載っていたので紹介。

預貯金など「眠っている金融資産」を多く持ち、家計に余裕のある富裕層ほど多く負担するのが「貯蓄税」。創設を提唱しているのが、クレディ・スイス証券チーフエコノミストの白石浩道さん。「消費税率5%アップの増収分にも相当する税収が見込める」と力を込める。

 資産全体に毎年課税。納税者は富裕層に限定する富裕税。
 預貯金と国際に毎年課税する貯蓄税。
 相続があったときに課税する相続税。
 贈与があったときに課税する贈与税。

 ロバート・B・ライシュの「暴走する資本主義」を読んだとき、ハッとしたことだが、彼は、企業などの法人税はタダにして、代わりに高額所得者の税負担を重くせよ、と述べていて、まったくその通りと思ったものだ。
 日本の大手企業は、いろいろな手を使い、実質法人税はタダにしていて、法人税を払っているのは中小企業のみ。
 だったら、こんな不公平はなくし、ライシュ氏のいう通りにした方がいいと思った。





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by spanky2011th | 2012-02-09 19:53 | 世相 妄想随談(音楽付き)

坂本龍一と桑田圭介

 エレクトリック・マイルスと呼ばれる時代のマイルス・デイビスの作品群の中で、いちばん好きなアルバムはと聞かれたら、迷わず、「パンゲア」「アダルタ」のライブ盤をあげる。ほかもすべて捨てがたいが、聞き込み度からいっても、この二つは、ダントツで聞いていた。
 まるで太古の巨大生物が洞窟の中で生息していて……といった空想が、どこまでも広がっていったものだ。
 いまも、折があると、聞いている。
 私は、そのライブを聴いて、音楽にはスペースというべきものがあり、広がりとか、色とか、さまざまな要素があると言うことを学んだ気がする。
 ギター1本がすべての空間を占めてしまったり、パーカッションの一音が様々な色を持っている。そんなことを学んだような気がする。それを楽しむことを教えてもらった気がする。
 惜しむらくは、自分に絶対音感があって、和音なども聞き取れる音感があれば、もっと深いところまで堪能できるのだろうと思うのだが。

 以前、NHKの番組で、天下の坂本龍一に、爆笑問題ののっぽの方が「サザンオールスターズ」の曲がサイコーだとやたらとしつこく主張していた。そう、サザンの桑田圭介は独自でオンリー・ワンだが、音楽の一部でしかない。
 桑田圭介をけなしているわけではない。
 ただ爆笑問題ののっぽのバカが、新橋の居酒屋にいる酔っぱらいみたいに、自分の意見に固執している姿を見ていて、こういうやつって、多いよな、と思うから書くのだが、日本人の多くは、「メロディーのついた歌詞」のみを音楽と思っているように思う。
 それは、音楽の一部であって、それがすべてではない。もっと、もっと、音楽の世界は裾野が広くて、いろいろな楽しみ方があるのだ。
 たとえば、ラベルの「ボレロ」。たとえば、ドビュシー。たとえば、ストラビンスキー。口ずさみにくいが、すばらしい音楽があるのだ。「ボレロ」などは、スペースと色を楽しむことができない奴には、まさに、ただ延々とつづく同じメロディーにしかすぎないだろう。
 たしか、大昔に読んだ「日本人の脳」という本だったと思うが、虫や鳥の鳴き声を、日本人は言語脳の方で処理していて、西洋人は音楽脳の方で処理しているとあった。「え」「い」「う」というような母音に意味がある日本語。ところが、西洋では「え」「い」「え」だけでは意味をなさず、子音プラス母音の列で、はじめて言語となっている。
 虫の鳴き声(母音)は、西洋人には単なる雑音として処理されてしまう。しかし、日本人には、言語として、情感を感じるというのだ。
 たぶん、そのせいで、日本人の「メロディーのついた歌詞」のみを音楽だと思い込んでいるやつが多いのだろう。

 坂本龍一は、日本では数少ない、スペースとか、色を持った音楽の作れる音楽家。デビューアルバムの「千のナイフ」のときからそうだったのに、その大作曲家に、あのバカののっぽは、「メロディーのついた歌詞」の大家がサイコーとしつこく食いさがったのだ。
 結局、坂本龍一は、苦笑いするだけ。あたりまえだと思う。
 坂本龍一はたぶん、桑田圭介のことを「メロディーのついた歌詞」の大家としてリスペクトしているけど、自分はちがう道を歩んでいることを知っているのだから。
 言語脳+音楽脳で楽しむ音楽もあっていい。
それと同時に、音楽脳だけで楽しむ音楽もあるべきではないだろうか。また、これがあって初めて、本当の音楽の豊かさを享受できるのではないだろうか。
 
ということで、今日は、坂本龍一。


Ryuichi Sakamoto-Energy Flow




 ryuichi sakamoto - rain(live)



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by spanky2011th | 2012-01-30 21:08 | 世相 妄想随談(音楽付き)

近況

 A小学生新聞の公募用に、210枚の作品をどうにか書き上げた。時間がないので、とにかく書き上げることのみに専心し、どうにか最後までたどり着いたという感じ。
 村上龍の作品を少し意識して、現代よりもほんの少し未来という設定で、福島の原発事故後の、温暖化がせまってきている東京の都心の子供が、都市伝説におびえる様子を描いたもの。とうぜん、そこでは節電が行われていて、重税にあえいでいる人々が、ごく普通に登場している。
 ある意味実にバカバカしい、それでいてREALなものになった気がする。いつもだと、書いたものを何度も読み返し、推敲するのだが、警備の仕事をやるようになり、とにかく時間がないので、ほとんど推敲なしで、応募に出すことになる。
 「ダイブ」や「バッテリー」が大ブレイクしたせいか、たぶん、いまの公募状況は、その手の「スポーツを通して何かを発見していくもの」ものであふれかえっていると思うので、その手のものは避けることにした。
 また、幽霊や魔法や超能力に対しての皮肉も、随所にちりばめたつもりだ。
 まあ、児童文学というのは、この魔法、幽霊、超能力といったものとは親近性があるので、使いたくなるのもわかるが、書き手が安易に寄りかかりすぎている気がしたので、今回は封印してみた。
 かなり以前、ファンタジーを書きたがっている童話作家に、本当に別世界があると思っているのか、聞いてみたことがある。
 すごく困った顔をしていたのを、思い出す。
 
 面白ければ何でもあり、というのは、児童文学では、わたしはやってはいけないことだと思う。
 そのいい加減な態度が、「オウム真理教」や、最近特に目につく「除霊のためにおこなった」という殺人事件の起きる温床となっていると思うからだ。

 何本か書いた作品のうち、公募にかすりもしなかったら、ネット上で公開してもいいかな、とも思っているが、そうならないことを望んでいる。



 娘が、こんな演奏を動画サイトに投稿しました。関心のある方は見て、激励のメッセージでもかき込んであげてください。


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by spanky2011th | 2012-01-27 15:01 | 世相 妄想随談(音楽付き)

砂時計の砂のように

 民主党がいよいよ消費税アップに着手する。日本の財政が破綻寸前なのは、みんな、知っている。ギリシャに日本はなりかけている。そして、それを阻止しないととんでもないことになる。だから、消費税を上げなくては行けないというのだろうが、ちょっと待て!
ギリシャの場合もそうだけど、公務員の問題に手を付けないで、消費税アップはないだろう。私は、公務員を敵視するつもりはないが、既得権として、様々な旨味は絶対に手放したくないという人間の欲望にこそ、メスを入れなくてはいけないと思っている。
 共産主義、社会主義の革命は、失敗に終わってしまったけど、当初の志はすばらしいものだったと思っている。平等で、みんなが平和に豊かに暮らせる世界を目指した。その失敗の原因は、テクノクラートと呼ばれる公務員の腐敗にあった。
 社会に巣食うガンみたいに、栄養分を吸い付くし、本体を死なせてしまう組織にいつしか変貌してしまったのだ。勘違いしないで欲しいのだが、行政組織はちゃんと機能させなくてはならない。
 たとえば、定期的に行われる自動車免許の更新。ここに寄生して、労働に見合う以上の栄養を取っているガン細胞みたいな組織はないのか。
 たとえば、スーパーコンピューター「京」開発に投じられる予算のうちから、何割かをさらっていく組織はないのか。
 そういうものに、きっちりとけじめを付けてからの「消費税」議論なら、筋も通るが、そうではない。低所得者への定額給付と、すこし甘いアメをちらつかせれば、国民は納得するはずだ、というその姿勢自体が国民をバカにしている。
 税金の高い国というのは、国民が政治を監視し、行政組織もその監視を受けて、透明度を高くして、国民の信頼を勝ち取っている。
 今のまま、消費税アップしても、最終的に国民のサービスに回される分は、たいしたことがないだろう。パイが大きくなればなるほど、公務員にかすりとられ、公務員の福祉と老後の蓄えに回せるパイも大きくなるだけだ。
 また、それに付随する業者がかすめ取るパイが大きくなるだけ。
 格差社会。もしくは、砂時計社会。中流だった人々が、砂時計の砂のように、貧困層へどんどん落ち込んでいるなかで、公務員だけは、上にとどまろうとしている。まるで、崩壊寸前のときのソ連のようだ。

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by spanky2011th | 2011-12-31 00:41 | 世相 妄想随談

上の浪費は、下々の繁栄


 三代目が、びっくりするような金額のお金をカジノで使い、それにからんで逮捕されてしまったが、その金銭感覚を見ていると、人間としてあわれに感じると同時に、格差社会をひしひしと感じてしまう。
 嫌いだからワイドーショーなどは見てないが、コメンテーターがどんな話をしたか、だいたい想像できる。多分、見たら、そのたびに、芥川龍之介「侏儒の言葉」の次の文を思い出すことだろう。

醜聞

なぜ公衆は 醜聞を――殊に世間に名を知られた他人の醜聞を愛するのであろう? グルモ ンはこれに答えている。――
「隠れたる自己の醜聞も当り前のように見せてくれるから。」
 グルモンの答はあたっている。が、必ずしもそればかりではない。
醜聞さえ起し得ない俗人たちはあらゆる名士の醜聞の中に彼等の怯懦を弁解する好個の武器を見出すのである。同時に又実際には存しない彼等の優越を樹立する、好個の台石を見出すのである。「わたしは白蓮女史ほど美人ではない。しかし白蓮女史よりも貞淑である。」「わたしは有島氏ほど才子ではない。しかし有島氏よりも世間を知っている。」「わたしは武者小路氏ほど……」――公衆は如何にこう云った後、豚のように幸福に熟睡したであろう。

 それにしても、カジノなんかで使わないで、日本で使ってくれればいいのに、と思ってしまう。その額を、子供たちの奨学金にしてくれればいいのに、と思ってしまう。
 江戸時代、どこの藩主だったか忘れたが、「上の浪費は、下々の繁栄」という旨をのべた御仁がいた。上と言っても、政府という意味ではないだろう。金を溜め込んでいる人々と解釈すべきだろう。
 そういう人々が、浪費してくれれば、経済は動き出すのだ。計画的に浪費してくれればベスト。しかし、そういう人々は、預金通帳の残高が減ることに異常な恐怖感を覚え、その数字の陰に隠れて、ある意味、庶民を見下し、ある意味、小人のようにふるえながら、生きているのだろう。

 いと、あわれなり。とワーキングプアのわたしは、強がってみることにした。




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by spanky2011th | 2011-12-06 19:21 | 世相 妄想随談(音楽付き)

 陳述構文について(3)

 いまは、仕事を変えて、時間が取れなくなってしまったが、なんとか、日本語についてのこのコーナーも書き続けていきたい。
 仕事仲間が、「日本語は独特で、むずかしい」としゃべっているのを耳にした。俗説である。誰が言い出したかわからないが、「日本語は、よその国の言語と比較して独特であり、むずかしい」と信じている人が多いようだ。新書「日本辺境論」にもあるが、どうも、日本人は日本の文化を独特であると信じ込みたがっているようだ。
 よその言語が独特であるのと同様に、日本語の言語は独特であるが、それ以上でも、それ以下でもない。
日本語は、「主語+動詞+目的語」というような語順で意味を伝達する言語ではなく、「てにをは」と呼ばれる助詞を膠として、言葉をくっつけていく言語である。
 わたしたちが日常接する多くは、英語圏の人々であり、または中国語圏の人々である。語順で意味を伝える人々であって、孤立語の言語体系の人々が、膠着語の日本語を学ぼうとすると、とても苦労するのだ。
 たとえば、中国の人に、「日本語と英語のどちらが、マスターするのに苦労するか」と聞いてみよう。まず、まちがいなく日本語と答えるだろう。脳が、孤立語仕様になっているのだから当然なのだ。
 逆に、脳が膠着語仕様の日本人が、英語をマスターするのに苦労するのも、当たり前なのだ。だったら、中国語も当然、苦労するはずだと思うだろうが、日本語は、卑弥呼の時代よりも前から、漢文を読み下すために、いろいろと苦労してきた。「てにをは」そのものが、そのために生まれたようなものだ。つまり、漢文は読み下せても、中国語の会話は苦手。

 さて、陳述構文だが、「きのう、お寺で、坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた」が基本であると述べた。そして、その応用として、
「日本の国宝とも呼べるすばらしい坊主の絵を、きのう、お寺で、坊主が屏風にすばやく描いた。」
「完全密室殺人事件が起きた昨夜、坊主である彼は、お寺で、屏風に上手に坊主の絵を描いていた。だから、彼にはアリバイ があるのだ。」


の文を例文として作ってみた。
 
「きのう(名詞・自立語)、お寺(名詞・自立語)で、坊主(名詞・自立語)が屏風(名詞・自立語)に上手に(副詞・自立語)坊主(名詞・自立語)の絵(名詞・自立語)を描いた(動詞・自立語)」
 助詞が膠の役目をしているのがよくわかるだろう。「きのう」の後の読点「、」も助詞の働きをしている。「お正月にぼくはお餅を食べる」の「に」と同じ働きをしているのだ。
 自立語とはその言葉だけで意味をなすもので、「で・が・に・の・を」といった助詞は付属語と呼ばれている。
 試しに、辞書でも、子供の教科書でもいいから、文法のところを見てもらいたい。付属語として、小さくしか、扱われていない。
 が、実は、日本語では、付属語の方が重要な働きをしている。それにしても、付属語などと名前を初めに付けてしまったがために、後々の人が苦労しなくてはならないのだ。助詞は重要ではないという、勘違いの原因になっている。
 中学、高校のときの文法の授業を思い出してもらいたい。品詞分解ばかりで、助詞の重要さを学んだ記憶はないはずだ。教えている方も、その重要さに気づいていないみたいだ。また、気づいていても、学校の先生方は、マニュアルから逸脱することを禁じられているから、教えたくても教えられないでいる。

 陳述構文の語順だが、
「時格 + 場所 格 + 主格 + 与格 + 対格 + 動詞」
が基本である。これをベースにして、さまざまな変形が作れるのだ。そのときに活躍するのは主題を作る「は」である。この「は」は、「なになにの話ですよー」という、話題の提示である。

きのうは、お寺で、坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた。
お寺では、きのう、坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた 。
屏風には、きのう、お寺で、坊主が上手に坊主の絵を描いた。
坊主の絵(を)は、きのう、お寺で、坊主が屏風に上手に絵を描いた。


という具合だ。

 さらに、「お寺」「坊主」「屏風」「坊主の絵」といった名詞には、その前に、詳細な描写や説明としての「形容詞」や「名詞修飾文」といったものをつけることができる。文法的にはそんなことばはないが「飾り」と、以後呼ぶことにする。
 たとえとして、「屏風」に「飾り」をつけてみよう。左甚五郎が出てくる落語が個人的に好きだから、「左甚五郎が名人芸を発揮して作り上げた」という文で「飾り」としてみよう。

きのう、お寺で、坊主が左甚五郎が名人芸を発揮して作り上げた屏風に上手に坊主の絵を描いた。

「坊主が左甚五郎が」が「ガガ」となって、読みにくい。歌手の「ガガ」は素敵だが、日本語の「ガガ」は、さけなくてはならない。
 このような場合、長い部分を前に持っていく。事実、そこらへんにある文章を、適当に読んでみてもらいたい。多くの場合、そうなっているはずだ。

左甚五郎が名人芸を発揮して作り上げた屏風に、きのう、お寺で、坊主が上手に坊主の絵を描いた。

というように並べ替えればいいのだ。
 もっと「飾り」をつけてみよう。その屏風に「総檜作りの木枠に、こうぞを原料にした和紙を貼付けた」をくっつけてみよう。

左甚五郎が名人芸を発揮して作り上げた、総檜作りの木枠に、こうぞを原料にした和紙を貼付けた屏風に、きのう、お寺で、坊主が上手に坊主の絵を描いた。

というように、「屏風」にふたつの「飾り」をつけることも簡単にできてしまう。
 
「来週、新幹線で、ぼく達は、東京から京都へ修学旅行に行く」という文章があるとしよう。
この場合、一番大切なのは、助詞であるのは言うまでもないが、次に大切なのは「動詞」である。動詞が「行く」だから、「から」「へ」「に」という助詞が導きだされると言ってもいいだろうう。
 動詞により、必要な助詞が決まってくるといってもいいだろう。
 日本語の陳述構文とは、動詞に、「てにをは」という膠で、さまざまな自立語をくっつけて意味を相手に伝達する言語といっていいだろう。


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by spanky2011th | 2011-12-06 18:32 | 日本語  基本の3文型

近況報告

 ライトノベルに挑戦していると書いたが、取りあえず、第一校は書き上げてしまった。原稿用紙にして、約180枚くらいか。
 ある編集者から教授されたことだが、いまの児童文学の読み手は、ほとんどが女子とのこと。男子は、ゲームなどに走り、ほとんど本を読まないそうだ。
 「黒魔女さん」「若女将は小学生」などを見ればわかるように、女子の支持を集めることができた作品が売れている。これはヤングアダルトでも同様だ。たぶんこの傾向が顕著になったのは、90年代頃からなのではないだろうか。講談社の新人賞が、正統的な児童文学の系譜でなく、ヤングアダルトの系譜の新人に賞をやるようになってから、顕著になってきたような気がする。
 その方々は、期待を裏切ることなく、児童文学をスタート台(悪く言うと、踏み台にして)にして、確実に大人の小説家へと転身していった。 
 いま児童文学に骨を埋める覚悟の作家が、どれだけいるのだろうか。児童文学の出版社も、そういう覚悟の作家を大事にしようとしていない。とにかく、売れること。売れる本を出さないと、老舗の理論社の二の前になる。そうはなりたくない一心で、売れる本を出すことばかり考えている。
 もしくは、教師たちがよろこびそうな「課題図書」ねらいの作品を出すことばかりを考えているみたいだ。課題図書狙い、つまり、感想文が書きやすい作品ということ。
 松谷みよ子、大石真、寺田照夫、舟崎やすひこ、安房直子といった創作児童文学の正当派が評価され、それに憧れて、児童文学をはじめた自分にとって、売らんがために作品を書くのは本意ではないが、そうもいっていられない。

 ヤングアダルトと正統派の大きな違いは、「恋愛」を描くがどうかにあると言っていいだろう。また、思春期の心の揺れを描くかどうかである。
 しかし、人間形成の基礎が築かれる児童期には、児童期だからこそ読むべき物語があってしかるべきだ。児童期を児童らしくすごせなかった人間は、可哀想な気がする。児童期の、豊穣なるファンタジーをふんだんに楽しんだ人は、ゆたかな人生を歩んでいける気がする。
 具体的に述べたいが、もっと、このことは思索してみたい。
 正統派の児童文学の作家たちは、おしなべて、恋愛に対してシャイである。そして、人生や社会に対しての、子供視点の正視眼があったような気がする。そして、豊かなファンタジーをもっていた。
 児童文学が、思春期の心の揺れと、異性に対する憧ればかりの作品だらけとなったときのことを想像すると、寒気がするほど恐ろしい。

 倉橋由美子がいっていたことだが、「もののあわれ」こそが、小説の神髄である。心が大きく揺れること、「あ、われ」と思うこと、これが小説の原動力である。もっとも大きく心が揺れる体験、それが恋愛である。また「死」である。
 そういう意味では、大人を読者とするほとんどの文学者は、怠惰である。安易に、「恋愛」を描き、誰それの「死」を描きさえすれば、そこそこの作品になるのだから。「渡辺O一」のように、この両者をチャンポンにして、過激路線を取りさえすれば、話題性抜群で、ベストセラーまちがいなしなのだから。初期の作品が好きだっただけに、いまの彼にはついていけない。
 一時はややった難病ものの小説などは、読むに耐えない内容なのに、「恋愛」と『死」をチャンポンにしただけで、ベストセラーになってしまっている。
 といっても、まったく大人の文学に絶望しているわけではない。吉田修一の「悪人」のような、すばらしい作品も生み出されている。
 わたしは、基本的に、取材した作品と、私小説は大嫌いというスタンスをとってはいるが、「悪人」はすばらしい作品だった。私小説「死の刺」で打ちのめされたときと同じ衝撃があった。
 ただし、「悪人」は「恋愛小説」ではない。映画「髪結いの亭主」が恋愛映画でなかったのと同様、あの作品では「犯人」と「犯人といっしょにいた女」との間には、恋愛が成立していなかった。そこをうまく描いていたのに、そこを読み込めた人が何人いるのだろうか。映画「悪人」では、それを恋愛映画にしてしまった、その手腕には脱帽ものである。おみごと、と声をかけたくなった。
 
 とにかく、いまは、児童文学にとって、試練のときだ。悪貨は良貨を駆逐するではないが、正統的な作品を書きたいという作家は、ますます貧困に喘ぐことだろう。

 女子の支持を集められなかったら、その本は出版されないだろうということなので、うまれて初めて女の子を主人公にしてみた。ギャル語も、ネットで検索して、使用してみた。
 イケメン(語感がきたなくて使いたくないが)なボーイフレンドも登場させようかともおもったが、今回は登場させなかった。が、そのうち、どこかの作品で登場させなくてはならないだろうから、その傾向と対策をいまから、考えておかなくてはならないだろう。
 集英社の「みらい文庫」の公募に出すつもりでいるが、少し眠らせてから、推敲し、送るつもり。とにかく、めったやたらと書いて書いて、書きまくっている。
 もし、落選したら、このブログで少しずつ、公開するつもりでいる。
 ブログ公開の日が来ないことをのぞんでいるが、逆に、出版はあきらめて、はなからブログ公開で、話題になってから、出版化という手もあるだろうが、そのときは、魂を売り渡して、「純愛」と「難病」と、ほんの少しの「事件性」を交えて書かざるを得ないだろう。
 しかし、「純愛」と「難病」は、自分がもっとも苦手にする所だから、やはり、いまのままでいいか。


 
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by spanky2011th | 2011-11-22 20:54 | 文学論のようなもの

近況報告

56歳になって突然襲ったリストラ。中高年の再就職はむずかしいときいていたが、予想以上で、いままでの出版業界からはきっぱりと足を洗い、正社員になることもすっぱり諦め、アルバイトか契約社員になることを目指し、就職活動を行ってきた。
 そして、ようやく見つけたのが、警備の仕事。収入は、三分の一以下になり、どうやって、生計をたてていくか、そればかりが頭から離れない。
 しかし、こんな体験、滅多にできることではないので、しっかりと体験を味わってみようと覚悟を決めている。
 少ない貯金が底をつく日が近づいてきている。警備の仕事をつづける事により、その日を先延ばしにするしかない。就職活動をしながら、芽が出るのを信じて、いくつかのタネをまいてみた。

 ひとつは、以前書いた「ネコ版剣客商売」の児童文学を、ある編集部に持ち込んだことである。みんな、ご存知のように、氷河期といわれている児童文学出版。出版社存続のため、とにかく売れる作品を出そうと、編集者はやっきになっている。作品としてアラがあろうと、文学として下品であろうと、売れる作品がいい作品なのである。
 大手に持ち込んだので、まず、出版されることはまずないだろう。なぜならば、彼ら大手と、中小の出版社とでは、採算ベースがちがっているからである。
 5千部発刊できればペイする中小なら、それは商売になる「よい作品」となるのだが、大手では、そのラインがちがってくる。
 よって、大手は、売れている作家に、売れそうな作品を書いてもらおうとしていて、それとは別に、未来への投資として、若手の掘り出しには力を注ぐが、56歳になった人の作品は出そうとしないからだ。
 商売になるだろうという本を複数出し、その中でいくつかが、ベストセラーになってくれるか、ロングセラーになってくれれば恩の字というスタンスだ。
 しかし、こんな作品を書こうとしている人間がいるというプレゼンくらいにはなっただろう。

 もう一つまいたタネは、小川未明賞に、これまた「ネコ版ファンタジー」を書いて応募してみた。9月10月は、それの執筆に没頭し、そこそこの作品にはなったものと信じている。生死をテーマにしたので、とにかく頭が疲れた。一時虚脱状態になってしまった。
 生死をテーマにしたものというと、「西の魔女が死んだ」という作品があるが、あれは、作者の生死観が、きれいごとすぎるような気がする。死を美化しすぎている。死を美化したあの作品を読んで、子供たちが、短絡的な自殺願望が生まれてきてしまうのではないか、と心配してしまったほどだ。
 現実に生きている辛さのあまり、鎌倉時代、西方浄土の念仏がとてもはやった。現実に希望を見いだせない人々が、あの教えにより、心の慰めを見いだした側面もあったが、しかし、現実世界への挑戦を放棄してしまった。即身成仏という美名で、自殺者が多数でた。
 マルクスの「宗教はアヘンである」という有名な言葉を思い出す。この言葉、宗教の全面否定の言葉と信じている人が多いみたいだが、経済学者の彼に、宗教を云々するつもりはなかったようだ。当時のキリスト教の一側面を批判したに過ぎない。それは、来世(天国)に救済を求めることにより、心の慰めを得ると同時に、現実変革への意志を放棄していることを、アヘンという言葉を使って、批判したに過ぎない。
 癌の末期の人に、痛みを和らげるために、アヘンが用いられる。しかし、それは、生きることを放棄してもらいたいがためではない。癌と戦い、治ってもらいたいから、処方するのである。
 末期で思い出したが、キューブラ・ロスの「死ぬ瞬間」という名作がある。しかし、彼女にも、美を美化しすぎている傾向があるようだ。やはり、色々な臨死体験をした人の話を集めた学者の本を読んでみると、「天国へと道体験」があるのと同じように、「地獄への道体験」もあるようだ。
 どうも、生きてきた時の生き様が、影響しているようだ。ちょうど、年を取り、高年齢になると、常識とか、世間体を気にしていた人の「心のクセ」が、隠しきれずに、露になってくるのと似ているようだ。
 「ネコ版ファンタジー」で、死を美化せずに書けたがどうか、すこし心配な面もある。

 あとは、結果を待つだけだから、11月になってからは、頭を切り替えて、次の作品に取りかかっている。今度のは、売れることを考えて、ライトノベルに挑戦。落語大好きな自分が、落語の知識をフルに使って、まったくバカバカしい、伝奇要素を取り入れた作品にするつもりだ。もちろん、ライトノベルの公募に出すつもり。

  以上、近況報告までに。

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by spanky2011th | 2011-11-16 10:49 | 文学論のようなもの

世界人口70億人突破


 ついに、世界の人口は70億人を超えてしまった。もちろん、これはよろこぶべきことであって、嘆くべきことではないが、しかし、いまの世界の経済体制は、その70億人の人々をみな幸福にするようにはできていない。
 産業革命以前、つまり人口が少なかった時代に発明されたルールを基本として、それをベースに、さまざまな改良(?)点を加えられて、現代に至っているといっていいだろう。
 世界に飛び火した格差反対デモにみられるように、格差があまりにもひどくなりすぎてしまったのだ。
 いまの経済体制も人間が作ったもので、神とかが作ったものでもなく、永遠不滅の正しい体制であるわけでもない。
 これを擁護するのは、甘い蜜を吸っている人たちだけで、その他の人々はうんざりとしているはずだ。ただ、それに変わる経済体制を思い浮かべることができないでいるだけなのだ。
 とくに、資本主義の弱点をきびしく見つめたマルクスが唱えた経済体制が、あのような形で終焉を迎えた姿を目撃してしまった私たちにとって、特にそうだ。
 そこにあったのは、官僚主義の弊害と、特権化した人々の醜いまでの自己中心主義であった。
 ここにメスを入れた形での経済体制を作れないと、世界には希望までもなくなってしまう。

 それにしても、過去の学説をただ研究しているだけの学者先生が多いのか、大きなスケールと卓越した構成力で、新時代の体制を唱えてくれる学者が出てこないのにはあきれ果ててしまう。
 もしかしたら、学者先生方にも官僚主義が蔓延し、新しい説を唱えたときの、他の学者からの総攻撃を畏れ、事なかれ主義がはびこっているのではないだろうか。

 
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by spanky2011th | 2011-11-01 21:51 | 世相 妄想随談

陳述構文について(2)

 陳述構文で大事な働きをしているのは、動詞である。
 動詞によって、他の要素が決められる。「食べる」「いく」「仲良くする」とさまざまな動詞があるが、この動詞次第で、対格などは決められてしまうと言っていいだろう。
 この対格などという表現も、西洋文法の無理矢理の日本語導入のように感じられるが、日本ではそれらを「てにをは」と呼んできた。 
 私は「てにをは」という表現の方が好きだから、以後、「てにをは」と呼ぶことにしよう。

動詞「食べる」だったら、

 昨日、レストランで、ぼくはスプーンでカレーライスを食べた。

という具合になる。対格「カレーライス」と動詞「食べた」はとなり合うのが自然だ。
「スプーンで」のかわりに「友だちと」とか「友だちといっしょに」とか、その文章に必要な情報をくっつけることができるのだ。

 小学校、中学校の作文のとき、しばしば先生に「おい、主語が抜けてるぞ」と叱られたことがあると思うが、日本語では「主語」(実は主題の「は」)は、それほど重要ではない。もちろん、不必要というわけではない。

 昨日、レストランでカレーを食べたときの話だ。
 カレーを食べていると、とつぜん、雷が鳴りだし、停電になって、真っ暗になった。


 という具合に、主題抜きでも十分に日本語としては通じるのだ。
 内田百閒の文章などを見ると、主題が抜けている場合が多い。「私」の場合、ない方が自然なのだ。もちろん、あっても構わないが。

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by spanky2011th | 2011-11-01 21:27 | 日本語  基本の3文型