「は」と「が」について(4)

 「が」は主語を表し、「は」が主題を表す。これは今の国語学では常識らしい。私もそう思う。
 しかし、「は」と「が」については、考え方が全くちがう。
 既知・未知派とは別に、世には「が」を特異格の助詞と考える人たちがいるみたいだ。
「私は社長です」「私が社長です」の二つの文を比較し、「私が社長です」の方が強調されているということらしい。
 私の考えでは、「が」は、私たちが生きている現実世界と密接な関係があり、しかも、私たちの五感(目・耳・口・舌・肌)を通して外界を認識し、伝達するときに使うものである。
 「えっ!?」と思うかもしれないが、日本語には、陳述構文と題述構文の、二つの基本構文しかない。

陳述構文=坊主が屏風に上手に絵を描いた。
題述構文=吾輩は名がない猫である。


 この二つの構文をスタンダードとして覚えてしまえば、後のことはちゃんと理解可能になってくる。
 「私が社長である。」が特異になるのは、スタンダードの題述構文「私は社長である。」でなくて格助詞「が」を用いているからである。「が」そのものに力があるのではなく、スタンダードから外れているから、結果的に強めてしまっているのだ。
 毎日、毎日、ピンクの口紅をつけていた女性が、ある日、突然黒い口紅をつけてきたら、何かあると周りの人は思ってしまう。それと同じだ。
「が」が「は」に変わったときも、同じようなことが起きる。
 典型的な題述構文の変形「はが文」で、「私は彼女が好きだ。」「吾輩は名がない。」の文章を俎上に載せよう。

 ①私は彼女が好きだ。→私は彼女は好きだ。
 ②吾輩は名がない。 →吾輩は名はない。


①②ともに、別のニュアンスが加わってくる。①の場合は、彼女を好いているけど、他にも好きな人がいるようだ。②は今は名がないが、将来的に名がつくように読み取れる。もしくは、名はないが、家はある。名はないが、知性はある、というように読み取れる。
 「が」は、現実世界にあるモノ・コトを淡々と認識し、伝達するのに用いられる。これを「五感認識伝達」と名付けよう。

 今日、私は歯医者に行った。予約待ちの人たちが自分の順番を待っていた(五感認識伝達)。椅子に座らされると、目の前に、現代絵画のカレンダーが貼ってある(五感認識伝達)。少し離れた壁には、時計があった(五感認識伝達)。
 歯医者の助手が私のところへ来て(五感認識伝達)、「お変わりはありませんか」と尋ねた。助手が背もたれを倒した(五感認識伝達)。「口をあけてください」と助手が言う(五感認識伝達)。私は言われたまま、大きく口を開けた。口の中に、助手が指をつっこんだ(五感認識伝達)。……


「が」のオンパレードである。ただし、私について言うときには、「は」が用いられる。これは当然のことである。「が」は自分の外の世界を認識し、認識したことを伝達するためのものであるからだ。自分のついて語るときには、説明的な「は」でなくてはならない。
「海が青い」「風が冷たい」「馬がいた」「ラーメンがうまかった」「キンモクセイの匂いが流れてくる」「手触りがよくなかった」「恋人が立っていた」などなど、五感で感じられるものの表現はいくらでもある。既知・未知でもなく、特異でもなく、ごく当たり前のことで使われる。

 これが、自分の思索などの内界のことになると、「は」になる。
 たとえば、世界中の海を見て歩き、その結果を思索し、ある共通項を抽出して表現すると、「海は青い」になる。
 たとえば、目の前を百匹の羊が通った。百匹の羊の鳴き方がどれも「メーェ」だったら、共通項を抽出し、「羊はメーェと泣く」になるのだ。
 様々な生き物を分類したその知識体系に基づいて判断するとき、「くじらは哺乳類である」「サンショウウオは両生類である」となる。

 自分についても、五感で感じられることは、 「(私の)足がしびれた」「目が痛い」「頭がかゆい」「熱がある」と、認識したことを伝達用に表現できる。

 しかし、内面的な世界になると、「私が思った」「私がラーメンを食べた」「私が彼女が好きだ」というように、不自然になる。
[PR]

by spanky2011th | 2011-06-25 12:21 | 日本語 助詞「は」と「が」