「は」と「が」について(5)


「は」と「が」だけで、よくもこんなにも書くことがあるものだ、と呆れている人もいるだろうが、まだまだ、書きたいことがある。
 東関東大震災を契機に、なにかが大きく変わろうとしている。これを陳述構文の言葉にすると、

①時代が大きく変わろうとしている。
②時代は大きく変わろうとしている。


 この二つが頭に浮かんでくる。
 好みの問題もあるが、私は①を感覚的に採用したい。なぜなら、頭ではなく、五感として、つまり強いリアリティーをもって「時代の変化」を感じるからだ。
 目には見えないし、触ることも出来ない「時代」が確かにあって、それが大きく変化しようとしている。それを感じるからだ。だから、それを伝えたいので、①を採用したい。
 
この「は」と「が」の使い分けは、ある意味、気分によるものだが、たとえば、ニーチェの有名な署名「ツァラトゥストラはこう語った」で、考えてみよう。

①ツァラトゥストラがこう語った
②ツァラトゥストラはこう語った


①の場合は、あくまでも現実を五感で認識し伝達するものだから、その気になれば、場所も時間も、発言内容も、特定できそうだ。そういう現実味がある。
 それに対して、②の場合は、ツァラトゥストラがその生涯を通して語ったことを抽出しているような気がする。それは、「は」が主題を作る格助詞だからである。

 主題というのは、要するに、「なになにの話ですよー」と聞き手に知らせることである。だから、「彼は、娘さんが東大生になったらしいよ。」という文章も作れるし、「こんにゃくは太らない」というような文章もまったく問題がない正しい文章なのである。レストランでの「ぼくはカレーライスだ」も、主題であるから、これまた、まったく問題がない正しい日本語である。

 ところが、私たちが学校で学んでいる文法では、「主語-述語」で文章は構成される、という。というより、信じ込まさせられてきた。主題という考えがない。さらに、日本語の文法よりも真剣に学んだ英語文法「S+V+O+C」などとチャンポンにして、その考えで日本語を考えてしまっている。そういう人がけっこう多い。これまた、主題という概念がない。
 そういう人が、「彼は、娘さんが東大生になったらしいよ。」「こんにゃくは太らない」「ぼくはカレーライスだ」という文章に接すると、首を傾げてしまう。さらに、この日本語は「主語-述語」になっていない、と主張しだす。
 日本語がすべて「主語-述語」でできているというのは迷信に近い愚かな考えであって、「主語-述語」でできているのは、「が」を用いた陳述構文くらいのもので、それ以外はほとんど「「主題-内容」と思っていい。 
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by spanky2011th | 2011-06-25 22:59 | 日本語 助詞「は」と「が」