「は」と「が」について(8)

 私の発想の根本には、東洋思想の九識論がある。西洋思想でもなく、言語学でもなく、九識論なのである。
 人間の生命活動の精神部分を九つの識に分けて考察したものだ。簡単に述べると、五識(眼識/耳識/鼻識/舌識/身識)に、第六識の意識、第七識の未那識(マナ識/知識や経験等が蓄えられる)、第八識の阿騾頼耶識(アラヤ識/意識に上らない無意識やトラウマが蓄えられる)、第九識の阿摩羅識(根本浄識)に分類し、これがダイナミックに関係し合って活動し、日々を生きているというのだ。
 いうまでもなく、私たちは六番目の意識を中心に、日常生活を送っている。しかし、それが精神活動の実態でないことは、深層心理学等で明らかだ。まぁ、変な譬えだが、この意識は会社組織の広報部・もしくは企画部といったところだろうか。
 自分が会社の中心だと思っていても、さまざまな情報が行き交っている会社という有機体の、一部に過ぎない。
 さて、「は」と「が」だが、この意識が五感(五識という言葉はみなに馴染みがないので、こちらを使う。)を通して、外の世界を認識し、判断して、私たちは生きている。大ソクラテス、大カントといった精神界の巨匠たちも、これは変わりはないだろう。この外の世界を認識・伝達するときに、私たちが使っている日本語では「が」が用いられる。
 そして、さまざまな知識と照らし合わせたり、思索したりするときに、「は」が用いられる。私は、そう確信している。
 大ソクラテスも、大カントも、同じように外の世界を認識し、さまざまな思索をめぐらしたに違いないが、彼らが使用していた言語では、その区別はなかったのではないだろうか。

 この二つを、私たちのご先祖様は使い分けて、モノゴトを認識し、伝達し、思索し、夢想し、いまの日本語を作り上げたのだから、ご先祖様はスゴイ。
 とはいっても、実際は、どうもご先祖様は「が」は使わなかったみたいだが。
 ここからは、おチャラケだ。

 一家を養うために、お父さんご先祖様は、クマを捕まえて帰らなくてはいけない。必死にクマの足跡を追い続けている。もう、三日目だ。
どこかで、ムクドリが鳴いている(耳識)。
 クマが枝を折ったあとがある(眼識)。その折れ口を見る。それから触ってみた。
「枝がまだ生乾きだ(身識)。」
 足跡を見て、どちらへ向かったか、判断する。形が崩れずに、くっきりと足跡が残っている(眼識)。が、大きさから見ると、
「このクマは200キロはある大物だ(思索・夢想) 。毛皮がだいぶ取れるぞ(?)。こいつを持って帰ったら、女房の奴はどんな顔をして喜ぶかな。(思索・夢想) 」
 とにかく、だいぶ、追いついてきたみたいだ。あたりを見回す。
 んっ? 見つけたぞ!
 お父さんご先祖様は、草薮の中に、かけこんだ。
 そこには、大きなウンコがあった。お父さんご先祖様は、顔を近づけて、ウンコをじっと観察する。色、つやは申し分なし。健康そのものの、大きなクマだ。小枝を持つと、ウンコを二つに割り、鼻を近づけた。
「すごく強烈な匂いがするぞ(鼻識)。むむむむむ。鼻が曲がりそうだ(身識)。」
 鼻先に、ウンコの温かみが伝わってくる(身識)。
「この暖かさは、二、三時間前にしたものにちがいない(思索・夢想)。」
(舌識の文も作ろうと思ったが、スカトロになりそうなのでやめることにする。)
その翌日、お父さんご先祖様の膝の上に、末娘が乗り、クマのもも肉にかぶりついていた。
「お父ちゃん、ムチムチしていて、噛めば噛むほど、いい味がにじみ出てくるね(舌識)。」


 と、まあ、こんな具合だ。
 1か所、「毛皮がだいぶ取れるぞ(?)。」だけ、? にしておいたが、これは、「このクマからは毛皮がだいぶ取れるぞ」と「はが文」になっていて、ちょっとだけ、五感認識からはみだしているからだ。
 「はが文」というのは、「私は君が好き(形容動詞)」「山は風が強く吹く(動詞)」「日曜日は教室が無人(名詞)。」「彼女は顔が美しい(形容詞)」というように、ほとんどの言葉を受け入れるとても便利な文型で、「主題」は「モノ・コト」が「内容」という構文になっている。
「このクマから(主題)は毛皮(モノ・コト)がだいぶ取れる(内容)ぞ。」
 「はが文」の「が」は、五感認識の範疇にあるような、ないような、微妙なところにいるが、五感認識であることは間違いがなさそうだ。
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by spanky2011th | 2011-06-28 13:02 | 日本語 助詞「は」と「が」