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3つの「せい」 

3つの「せい」 


 大学一年のときの一般教養での「文学」の講義で、教授が、
「文学には大きなテーマが三つある。それは三つの“せい”である。」
といって、「聖」「政」「性」であると教えてくれた。36、7年前の話だ。私は、なるほどと思った。

 「政」は政治、もしくは社会と言っていいだろう。「性」はセックスというよりも、人間の「さが」といったほうがいいだろう。この二つを扱った文学は、日本にはゴマンとある。が、「聖」を扱った文学は少ないように思う。

 どうも、日本人はそういうことを考えるのは苦手のようで、また、そういうことを考える人を変人扱いする傾向にあるような気がする。というより、その手の物を茶化して、我賢しとする精神風土があるようだ。

 「聖」は、尊厳なるもの、神聖なるもの、といっていいだろう。
 この系譜を考えてみると、古代の神(霊)→卑弥呼に見られる神の代理人→天皇→将軍→国家(天皇)→経済と流れているように思える。ギリシャのように、真善美をその座につけようとしたこともあるが、それは例外的な出来事だろう。
 「聖」なるものは、どんどん世俗化している。
 大雑把すぎるのは百も承知だが、今の「聖」は経済以外は考えられない。しかも、欲しい物をほしがってなぜ悪いのか、と欲望の無放縦な隷属を善しとしている。これが、限界に達した経済が、生き延びるために発見した手段だからだ。
 「経済」を神聖なるものとして祭り上げ、「経済」の繁栄のために、たくさんの不幸な人々が誕生してもやむを得ないものだと思っているように感じる。
 ちょうど、大東亜戦争時、「国家」の繁栄のために、たくさんの人々が犠牲になってもやむを得ないものだと思っていたのと同じように。

 吉本隆明あたりなら、すべてを共同幻想と片付けてしまうのかもしれないが、共同幻想、大いに結構。いまは、「聖」の新たなる共同幻想が必要とされているのだ。
 神話学者キャンベルではないが、「神話はいつの時代でも必要とされているのだ」。「神は死んだ」で有名なニーチェも、単に神を否定したのではなく、神に変わる新しい「聖」を探して、模索し苦闘していたのだ。

 児童文学をやっている人に多いのだが、「国家」「経済」の神聖視に対して、ノーという立場の人々がいる。
 彼らには、なぜか共通する傾向がある。彼らは、揃いも揃って、先祖返りしてしまう。古代の神(霊 アニミズム)に走ってしまうのだ。
 それがなぜなのか、私には理解に苦しむ。宮崎駿のアニメのせいなのではないか、と思ってしまうほど、ワンパターンなのだ。

 マンガやアニメでは「命以上に大切な物があるか」というような台詞があちこちに見受けられる。
「地球よりも重い生命」という台詞も多用される。生命を神聖視すれば、なんとなく、落ち着くところへ落ち着き、なんとなく、読者も編集者も反対しにくい。
 その手の台詞はオールマイティーの切り札なのだろうが、あまりに多用されすぎて、陳腐化してしまっている。 

 作品「神の代理人」は、ある意味、狂信の恐ろしさを書いたつもりだが、いま、「経済」を神に祭り上げた人々が、パウルス四世がしたのと同じことをしているような印象を受ける。
 「経済」を神の座から引きづり下ろし、いまこそ「生命」を尊厳なる物に据えなければならない時が来ている。
 悲しいことだが、口では昔からいわれ続けていることだが、「地球よりも重い生命」が尊厳なる座についたことは一度もない。



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by spanky2011th | 2011-08-07 13:49 | 文学論のようなもの